■ヨシエちゃんの話 (1)


 好きな人がいます。
 その人は女の人で、わたしも女です。
 だけどそれがあきらめる理由になるかといえば答えは否で、でもわたしにはどうにも分の悪い恋なのです。
 わたしの好きな人には、すでに意中の人がいました。
 その人も、女なのです。

     ◇

 今日はバイトがなかった。なので、受ける講義が終わればあとは暇だった。わたしは図書館へ行くという友人らの誘いを断って、キャンパスを出るとまっすぐ寮へ帰る道を選んだ。彼女たちとはこの大学に入ってからの付き合いだけれども、親しみやすい子たちで、気を使わなくていいところがよかった。高校まで女子校だったわたしは、なんとなく異性に対して気後れ、というか壁のようなものを感じてしまうのだけれど、共学出身の同性に対しても似たような、壁とまではいかないけれど、薄い膜のような疎外感を覚えることはあった。彼女たちにそれがないのは、彼女たちもまた、同じような女子校出身者だからかもしれない。でも本当は彼女たちにもその壁、あるいは膜のようなものがあって、わたしが無意識的に見ないようにしているだけかもしれなかった。それをあるいは、妥協と呼ぶのかもしれない。
 寮への道は、明るい。大学の敷地に沿って十分ほど歩く距離は、女子寮への道をいうことを意識してか、街灯が多いのだった。夕暮れの早くなってきたこの季節、街灯の多いのは助かった。私の実家は隣県ですぐに帰ることのできる距離だけれども、当たり前だが、今ここで暴漢に襲われたからといってすぐに駆けこむことのできる距離ではない。そう思うと、この人口の光のもたらす多少の心強さに、わたしはほっとせざるを得ないのだった。親離れできていない、と笑われても仕方ないかもしれない。だけどわたしは自分の臆病さが最早どうにかできるとも思っていなかった。怖いものは怖い。暗い道で、すれちがう人がみんな本当はこの世ならざる者で、自分を襲う機会をうかがっているのではないか。とか、本気で思うこともある。そんなときは、少し早歩きになる。子どものころに見た、未来から来たネコ型ロボットの映画で、西遊記の魔物が現代にまで侵攻してくるといった展開だったと思うのだけれど、細かい話のすじは覚えていないのに、暗く重たい空や灰色の町の感じ、親までが味方でなくなってしまったときの恐怖が、今でも骨の髄まで染みついている。あのころからすれば今のわたしは大人と云っていい年頃だと思うのだけれど、怖がり方は全然変わっていないと思う。あの、とにかく怖くて怖くて、自分ではどうにもできないことが思い知らされ切っていて、追いつめられていく感じ。実際には出ていない想像の冷や汗が、ずんと身体を冷やしていく。わたしは怖がりで臆病で、下手な想像力だけは有り余っている、つまりどこにでもいる意気地なしだった。
 春と云っても、まだ日暮れは早い。街灯の下は、すでにしっかりとスポットライトのような円形の光が落ちている。その下をくぐるとき、わたしはいつもどぎまぎしてしまう。住宅街の隅にあるこの道を使う人間は多くない。でもこの光の下にいるとき、わたしは視線を感じてしまう。一つや二つではなく、たくさんの目がわたしを見ているように思う。その一つ一つは、たぶん元をたどれば全てわたし自身に行き着くのだけれど。意気地なしの上に自意識過剰だなんて、みっともないにもほどがある。
「アア…」
 自然重たくなる足取りに、つられるようにため息がこぼれた。春はどうしてだか、考えがふさぎこみがちだ。せっかくあたたかくなって、世間は新しい生活のはじまりだ、心機一転だ、とにぎわっているのに、わたしは子どものころから春になじめない。春生まれのくせに、春が嫌いなのである。ぼんやりしていると、頭の方が勝手に落ちこむ方へ落ちこむ方へと、転がっていってしまう。どうせなら春らしく、ふわふわした気分でいたいものだと思う。いっそ願う。わたしにとっての春は、どちらかといえば陽光うららかなものではなく、菜種梅雨のようにじめじめとして鬱屈したものだった。
 そうして寮への長くない道をとぼとぼ歩いていると、背後から徐々に足音が近づいてきた。何かを引っかけるような、軽い擦過音がときどき混じる。あっ、と思ってわたしは背筋を伸ばした。わたしの知る限り、そんな足音を立てる人はここいらには一人しかいなかった。そしてやっぱり、その予想は外れていなかった。




100522
上原さんがこんな性格になると思ってなかったので書きながら困っている現在