■お嬢様のご趣味 (2)
「ねえ、この手、わたくしにくださらない?」
このとき、わたしの頭の中にはイエスもノーもなかった。多分、たっぷり三十秒間くらいは今云われたばかりの言葉をくり返していた。そしてそれが文法的にはまちがっていないことを噛みしめてから、掴まれている手と、その掴んでいる当人であるところの木林さんの顔とを、じっとり見つめた。
「……木林さん」
「はい?」
「って、サイコな人、なの?」
「あら、どうして?」
訊き返してからすぐ、ああ! と木林さんはうなずいて、ころころと笑った。
「別に、あなたの手を切り落としてホルマリン漬けにしようっていう話ではないの」
まさにそういう図を想像していたわたしは、とりあえずほっとして息を吐いた。それから、じゃあどういう意味、と重ねて訊ねる。
そうねえ、と木林さんは顎をそらすようにして、
「ねえ萩尾さん、あなた今、許婚などはいらっしゃる?」
「……そんなのいる女子高生ってこの学校に存在するんすか」
「じゃあ、彼氏や彼女もいないのね」
「いねーっす。特に後者はいねーっす」
頭の中のどこを使うとそういう考えが出てくるのだろう。金持ちの考えることはつくづくわからない。もしかして木林さんは宇宙人なのかもしれない。もしくは突然変異。
などと思っていたら、木林さんはまた意味のわからないことを云いだした。むしろ今度の方が、最大級に意味不明だ。
「では、わたくしに連れ添ってくださらない?」
「……ちょっと、待って」
わたしはくらくらしながら目を閉じた。「連れ添う」。今、彼女はたしかにそう云った。連れ添うってどんな意味だったっけ? 記憶のなかのわたしが辞書を引く。
連れ添う=夫婦になる
そうだった。中学生のときに読んだ小説に出てきて、調べたんだった。オッケー。つまり木林さんの言葉を訳すと、こうだ。
「今の、プロポーズ、だよね?」
「ええ、そうなるわね」
いきなりではしたないけれど。と、彼女は照れたように顔を赤くした。はしたない。HASHITANAI。で、済ましていいレベルの問題なのか、これは。
「……あのね、木林さん。そういう相手は、きちんと考えて選んでから云った方がいいよ」
「どういうこと?」
木林さんは真面目にきょとんとしている。やっぱりこの人、ほんとに宇宙人かもしれない。それとも巷のお嬢とは、皆こういうものなのだろうか。金は、人を狂わせるのか。
「あのねぇ、どうしてって、相手がわたしってことだよ? わたし女だし。取り立てて特長もないし。父さん万年係長だし。第一、わたしたちまともにしゃべったのって今日が初めてじゃん」
語れば語るほど問題は山積み…、というか、問題しかないように思われる。
にもかかわらず、お嬢様はきっぱりと
「そんなことかまわないわ」
云いきった、ものである。
「わたくし、この手と添い遂げますのにどんな苦難もへいちゃらよ」
「……えー、本体は?」
「あなたのことも愛します」
「も」って、わたしオマケですか。本体なのに!
云っていることは無茶苦茶だが、木林さんの顔は真剣だった。これがふつうに「好き」と云われた告白だったなら、性別の差など乗り越えてあっさり「お受けします」と答えてしまいそうなくらいには、真剣だった。
だが、なにせ彼女が好きなのは「手」なのである。あくまで「手」なのである。
手フェチのお嬢様に何云われてもな。
わたしは内心木林さんを持て余しながら、どう返事しようか、答えあぐねていた。冗談でしょうと手を振り払ってしまおうか、それとも、適当に合わせておこうか。どうせこのしおり係の仕事が終われば、彼女とわたしの間には元の通り、何にもなくなるのだ。
そもそも、これが彼女の一時の気の迷いでないと、誰が云い切れよう。いや、気の迷いでない方が尋常じゃないんじゃないのか?
……そうである。彼女の雰囲気と勢いに飲まれてしまっていたが、この状況はどう見ても異常だ。だって「手」にプロポーズだなんて!
わたしは軽く頭を振った。冷静になると、窓の外が暗くなっていたことに気付いた。グラウンドから聞こえていた部活動の声も、ほとんど途絶えてしまっている。校舎のなかも静まり返って、廊下ばかりがこうこうと明るい。下校時間をとっくに過ぎていたらしい。わたしたちも早く帰らなければいけない。しおり作りの続きは、明日だ。
「きばやしさ…」
呼びかけようとして、わたしは自分の手が震えていることに気が付いた。
ちがう。
わたしの手が震えているのではない。すがるようにわたしの手を握る、彼女の手が震えているのだ。
わたしはもう一度、彼女の顔をよく見つめた。赤く染まっていた頬は、今は青白く緊張していた。きつく結ばれたくちびるも、手と同様に細かく震えている。目の端は、うっすらと濡れて滴をたたえている。
うひゃーっ、とわたしは声にならない声を上げていた。アア、この人、本当に本気だったのか。
くらり、とわたしの中で何かが確実に傾いた。一度傾いたそれは、もう立て直そうにも無理だった。傾いて、折れて転げて、行くところまで行くしかないのだ。
無茶苦茶だった。彼女は無茶苦茶で、わたしもたいがい無茶苦茶で、でもわたしは最早、こう云うしかない。
「お受けします」
ぱぁっ、と顔をかがやかせた彼女がわたしの手に熱いくちづけを落としたのはその直後で、わたしは今日、三度目の悲鳴を上げることになる。
100228
ローリンガールなお話でした