■お嬢様のご趣味 (1)


「あなたの手、美しいわ」

 木林さんにそんなことを云われたのは、ジャンケンに負けて押し付けられた、クラスの修学旅行のしおり作りもそろそろ終わろうかという時だった。終礼のあとしばらくはぽつぽつ残っていたクラスメイトもみな帰ったあとで、夕陽の差し込む教室にはわたしと彼女の二人しか残っていない。
 あとは冊子としてまとめるべくホチキスで留めるだけ、という状態にしたプリントをとんとんと机の上でととのえていたわたしは、思わずその動きを止めてまじまじと机をはさんで向かいに座る彼女の顔を見返した。とにもかくにも「美しい」という単語を日常生活内で聞いたのは初めてだった。しかもその対象が、自分の身体の一部ときたものだ。わたしの思考は相当に驚愕していた。それで出た言葉が、
「な、に、云ってんの?」
 である。わたしの頭の中が「何云ってんだこの人」でいっぱいだったからだ。脳と口がすっかり直結してしまっていた。
「あなたの手はとても美しい、って云ったのよ」
 木林さんは穏やかに微笑したまま、副詞「とても」まで付け加えて再度おっしゃった。わたしの聞きちがいでもなければ彼女の云いまちがいでもなかったことが確認されて、うひょー、とわたしは声を上げた。ぞわぞわっ、と首すじのあたりが熱く、もどかしくなる。わたしは照れるとその辺が痒くなってしまうのだ。
「あー、あ、あ、りが、と、う」
「萩尾さんって面白いわねぇ」
 赤くなってうつむきながらもたもたと礼を述べるわたしを、木林さんはくすくすと笑いながら見ている。こうしたふたりしてしおり係になるまで、同じクラスでありながら彼女とわたしはろくに口を利いたこともなかったのだ。
 と、そんな上品に笑っていたくせに、パッとわたしの手を取る動作は実に素早くて、わたしは掴まれたあとで我に返って、うひょー、と再び顔を赤くした。
 わたしの手を美しいだなんて云ってくれているが、木林さんは顔が美しいんである。顔に限らず、容姿が美しいんである。白い肌に涼やかな黒い瞳、いかにも良家のお嬢様っぽい長く艶やかな黒髪をまっすぐ背中に流して(実際木林さんの父親は某有名自動車メーカーの重役だ)、背はさほど高くはないけれども、すらりとした身体つきをしている。クラスメイト諸氏が、表立っては云わないけれども、こっそり彼女のことを「お嬢」と呼んでいることをわたしは知っている。なぜなら時々はわたしもそう呼んでいるからだ。けれどもそれは悪意や妬みからではなく、畏怖や敬意といった、ちょっと近づきがたい彼女の雰囲気を(わたしの知る限り、一人称で「わたくし」を用いるのは彼女だけである)自分たちなりにからかってみた結果である。なので「お嬢」はその名前のわりに傲りたかぶるような振る舞いもなく、学年を問わず高嶺の花として人気だ。ただ高嶺の花であることはまちがいないので、彼女はやはりその他大勢とはどこか一線を画している。
 その木林さんは、掴み取ったわたしの手をつくづくとながめている。誉められたとはいえ、美しい人に見られるのはやはり恥ずかしい。いやどんな人にでも、身体の一部とはいえ詳細に見られるのは恥ずかしいにちがいない。しかも木林さんときたら、やたらと熱っぽい。朱色に頬を上気させて、うっとりとただわたしの手を見つめているのである。
「ああ、見れば見るほど本当に素敵」
「……ありふれた、手だと思うけど」
 たしかに、化粧っ気のないわたしにしては手は手入れのされている方ではあった。あんたも年頃なんだからと、大学生の姉にむりやりハンドクリームとネイルケアのセットを押し付けられたからだ。でもそれくらいのことをしている同級生はまだ他に幾人もいた。わたしだけが特別ではない。
「そんなことないわ」
 ところが木林さんは力強く否定する。
「この骨と肉のバランス、指の長さ、肌の色の具合、艶、どれをとってもわたくしの理想よ」
「へ、へえ…」
 骨や肉の問題とか、そこまで事態が深刻であるとは思ってもみなかった。
「木林さん、手フェチなの?」
 声フェチや鎖骨フェチという友人がいる以上、手フェチがいてもおかしくはない。あまり女子高生の段階でマニアックな方向に走ってほしくもない気もするが。
 フェチという言葉自体知らないんじゃないかという可能性もあったが、意外に木林さんは知っていた。
「今までもなんとなくそういう傾向はあったのだけど、こんなに興奮したのはあなたの手を見た今日が初めてよ」
「へ、へえぇ…」
 わたしも自分の手に対してこんなに興奮されたのは初めてです。
 引き気味のわたしにかまわず、木林さんの興奮は高まる一方のようで、今や頬ずりせんばかりの距離にあった。吐息がかかってムズムズするのでやめていただきたい。
「ああ、もったいないことをしていたわ。せっかくあなたと同じクラスだったというのに、今日になってこの魅力に気付くだなんて」
「もったいないようなモンでもないでしょ、こんなの」
 さすがにそろそろ呆れてきたわたしが云うと、どうしてわからないのかしら、と木林さんは心底不思議そうに首をかしげた。そして、それなら、と何かひらめいたように顔を明るくして云った。それは実に美しい笑顔だった。

「ねえ、この手、わたくしにくださらない?」




100227
怖い話にするつもりはありません。一応