■胸さわぎ


「なー、タナぁ」
 呼びかける声が気だるければ、
「なにー、ハナぁ」
 応じる声も気だるい。まず何よりそこらに漂っている空気がすでに気だるいのである。たしか今朝見た天気予報では今日も順調に真夏日で、三十度を越しているとのことだった。今日も三十度を越えるでしょう、と予報士が云った時点で続きを聞く気の失せたタナミは家を出てきてしまったので、正確な気温はわからない。でもクソ暑いので、暑いことはたしかだ。なにせ真夏なのである。ハナマキなどは制服が濡れるのもかまわず水で冷やしたタオルを首に巻いているが、全然涼しそうに見えない。その上に乗っかっている頭というか顔が、「暑いんじゃ!」と全力で表現しているので、むしろ濡れたタオルがいかにも生ぬるそうでやっぱり暑苦しい。
「なんっであたしらはこのクッソ暑い中、クッソ暑い教室で紙と戦ってんだろうな?」
 暑苦しい顔が、暑苦しく口を歪めた。
「そりゃ先生が帰りがけにあんたにこの仕事云いつけて、あんたが嫌だって駄々こねてクラス巻きこんでジャンケン大会までしたのに負けたからでしょ」
 しかもいきなりの一人負けであった(ハナマキだけがグーを出した)。クラスの心はあのとき一つだった。
「云うな!」
 ぎー、とうめいて、ハナマキが机の空いたスペースに突っ伏す。ついでにイスから浮かせた足をぶんぶん振り立てるので、机が激しく揺れまくる。
「あんたが訊いてきたんでしょうが」
 せっかく積んだプリントの山が崩れてはかなわない、と押さえながら、冷静にタナミは返した。
「あたしはもっと大きな問題として訊いたんだよ!」
「じゃあ単純にあんたがジャンケンに弱いから」
「ぐぇ」
 つぶれたあんパンのような顔でつぶれた悲鳴を上げ、ハナマキは沈黙した。
 今日は、夏休みの最中にあるただ一度の登校日だった。その登校日に、二人は居残りを指定されているのである。
 担任が二人に課した仕事は、始業式の日に全校生徒に配布する予定のプリントを各クラスごとの枚数に振り分ける、というものだった。水害対策だのPTAのお知らせだのプリントは五種類あって、サイズは全てB5。いつコピーしたものか、重なり合った紙同士がすっかりくっついており、バラして一枚一枚数えるのが実に大儀なのである。
「こんなん夏休み中に先生たちがやればいいんじゃんね!? どうせ暇してんだろうしさぁ」
 とんだ暴言だが、ハナマキの暴言はいつものことなのでタナミは慣れたものである。それよりさっさと帰りたい。特に家に帰ってしたいことがあるわけでもないしやるべきことがあるわけでもないのだけれど、ここよりはまだ涼しいので帰りたい。
「さぁ、何か他に秘密の仕事でもあるんじゃないの」
 そんな気持ちでいっぱいなので、会話も自然適当になる。ハナマキの方は飽きてきたらしく、退屈を埋めるのに適当な会話をはじめる。こんなことしてるより早く手動かした方が建設的なのだが、と思いつつ適当な気持ちで仕事をしているので、ついつい流されてタナミも返事をしてしまう。
「たとえばどんな?」
「そうだねえ、ハナの進級について可か不可かっていう打ち合わせとか」
「まじで!?」
「んなわけないだろ」
 ビビるほど不味い成績なわけでもないのに「そ、そうだよね。冗談だよね?」と念押ししてくるのは、普段の行いに多少の心当たりがあるからだろう。実際のところは知らないし、結構どうでもよかったから、
「うん冗談」
 たぶんな、とこっそり胸のうちにのみ付け足しておく。
 大体ジャンケンに勝ったタナミまで居残っているのは、ハナマキに泣きつかれたからに他ならないのである。たしかに全校生徒×5倍のプリント数は半端なく多かったし、不器用なハナマキに任せたら始業式当日にプリントを巡って混乱が起きるかもしれない(そんな重要な内容のプリントは何一つなかったが)と思うと、放って帰る気にもなれず、仕方なくタナミも付きあうこととなった。ただ了承する前から 「まー、タナミと二人でやれば早く終わるだろ」
 と担任が勝手に決めていたのが腹立たしい。あとでアイスでもおごらせてやろうと、若くて適当なところが一部の女子に人気の男性担任をたかる算段を付けておく。もっとも担任はタナミが何も云わなくてもそれくらいのことはしてくれそうだし、そういうところが一部で人気だったり反発を招いたりしているのだったが、タナミとしては今重要なのはアイスだけなので、担任の人気に関してはさしあたって興味がない。ただ、仕事を云い付けるだけで何の見返りも寄越さない中年の教師どもよりは幾分マシだと思う。
 それにしても暑い。私立ならいざ知らず、ここはごくごく普通の公立校なのでもちろん冷暖房などあるはずもなかった。だったら会議室とか職員室の片隅でも使わせてくれればいいものを、
「まあ、エコな」
 などと理由になっていない理由で担任に却下され、二人はこの暑苦しいばかりの教室で作業をしているのだった。
 せめて風くらいは、と窓際の席を勝手に使わせてもらっているが(タナミもハナマキも自分の席は廊下側だったり教室中央だったりした)、真夏の昼下がりに風などほとんど入ってこず、校舎の壁に張りついているらしい油蝉のじーじー鳴く声ばかりが響いている。
 蝉ももっと涼しいところで鳴けばいいのにとタナミは思うのだが、それは蝉の勝手である。タナミは自分の勝手で席を移ったが、それより権力のある担任の勝手でこんな暑苦しい場所で仕事をさせられている。勝手にしているのに勝手に振りまわされているのか、勝手に振りまわされた結果として勝手に振る舞うことにしたのか、すこし考えてやっぱどうでも良いやと結論づけたタナミは、なんとなく窓の外を見やってそこを行く生徒にはたと目を止めた。
 「彼女」はちょうど運動場を回りこんで、正門を抜けて出ていこうとしているところだった。後ろ姿しか見えないが、それでもそのまっすぐな背中に流れる黒髪はまちがえようがない。他にも数人、同じように下校していく生徒はいた。でもタナミの目は、彼女に吸い寄せられるようにそこへぴたりとおさまった。おさまると、離せなくなった。あの春の日から今日まで、その背中を目にすることは何度もあった。目にする度、いつも胸がざわついた。それは今も例外ではなくて、すっかりだらけていた心の隙間を不意に鷲掴みにするように、強い衝動がタナミを揺さぶった。しかしその衝動は、決して表には出ない。
 自分が小さくため息を吐いたのに、タナミは気付かなかった。
「何かおった?」
 タナミの目線を追って、ハナマキが窓の外へ目をこらす。え、とタナミはその声で我に返って、「なんでも」とうそぶいた。彼女の姿を追っていたのだとは、何でだかハナマキにも知られたくない気がした。
「これで二年生分?」
 ごまかすように、机の上にできた紙の山を指して訊く。
「ん。あと三年分があっけど」
「あまり考えたくはないが、ま、やるっきゃないわな」
「だなぁ」
 とりあえず振り分けた分のプリントは、教卓の近くの机の上に積んでおく。どこへ置いていけば都合が良いのかわからないが、頼まれたのは振り分けるところまでなのだから、あとは知らない。
「あーもー、やっぱあとで担任殴りてー」
 口を尖らせて拗ねた表情はかわいいのに、ボキボキと高らかに鳴り響く拳の音が不穏だ。というよりハナマキの場合は本当にやりかねないので、タナミはやんわりを釘を刺しておくことにする。
「あんたそんなことばっか云ってるから進級が取り沙汰されるんだってば」
「え、あ、あああれ本当だったの!?」
 途端に手のボキボキもやめ、切迫した表情でハナマキが身を乗り出してくる。お前どれだけ自らの行いに心当たりがあるんだ。
「さぁ。それよりさっさとこれ終わらせちゃおう」
「ちょ、タナそのまえにあたしの一大事…!」
「これが全部終わったら真実を教えてしんぜよう」
「まーじーでー?」
 ぶつぶつ云いながらもスピードアップしたハナマキといっしょに作業の手を早めながら、タナミはもう一度だけ、ちらりと窓の外を探した。彼女の姿はもちろんもうなくて、でもタナミの目にはまだ白い道の上に蜃気楼のようにあの姿が残っている気がした。
「そういやさ。今日このあとタナん家行ってもいい?」
 うかがうように、上目でハナマキが訊ねてくる。
「いいけど。…お前また宿題やってないんだろ」
「な、なんでわかんの!?」
「わかるっつーの」
 慌てふためくハナマキの顔を、ぺし、とプリントでぶつ真似をする。
「あんたとはもう四年の付き合いなんだから。ハナのことくらいわかるってば」
「…う」
 するとハナマキは妙に赤い顔をして、
「ま、まあ、タナになら、わかられてもいい、かな」
 それが変に真面目くさっているので、タナミは困って
「…ばーか」
 ぼやくように、返しておいた。




091119
先日コミティアにて発刊した『不毛地帯ガールズ』よりタナミとハナマキ