「冬風邪」(4)


「…ちょっとトイコさん」
 放してよ、という非難を込めて云ってみたのだが、トイコさんの手は依然としてわたしの服を掴んだままだった。立ち上がることができないので、仕方なくお盆を脇に置き直して、ふくれっ面の大バカ者をにらむ。
「寝るようにって云ってるでしょ」
「寝るよ」
 目をそらしながら、そのくせ掴む手はいよいよ強いのである。
「じゃこれは何」
「カズさんもいっしょに寝よう、っていう意志を…あ痛ー!?」
 思わずトイコさんの顔面にチョップを放ってしまっていた。加減ができなかったのでそりゃ痛かったろうが、この場合わたしは悪いのだろうか。いやそんなことはあるまい。反語。
「なにふさけたこと云ってんの」
 何が楽しくてトイコさんと同衾せねばならんのか。そういうことは半月くらい前に別れた彼氏にでも云えばいいのだ。まぁ今さら来ないだろうけれども。第一ここは女子寮なので、男子禁制だ。
「ダメなのぉ?」
「嫌だよ。寒いんなら湯たんぽ持ってくるからそれでガマンしてよ」
「嫌だよ」
「嫌ってあんた」
 どうにも今日のトイコさんはしつこい。風邪くらいで何を大袈裟な、とわたしは呆れる他ないのだが、熱で赤く上気した顔は存外真面目っぽい。真面目なトイコさんは稀だ。この間の、早朝の散歩のときにトイコさんが見せた切実さ、と似通ったものが、今わたしにすがる手にはあった。大袈裟だと、一笑に付すこともできた。でもそれを切り捨てられないのは、めずらしく弱々しいトイコさんの声を聞いてしまったからかもしれない。
 わたしの苛立ちは、泡のように浮かんですぐに消えてしまっていた。消えるなよ、怒っていいぞ。と自分に思うのだったが、それはぽこりと浮かぶやいなや、トイコさんの手に吸い取られるように立ち消えてしまう。元々怒りっぽい性質でないのが、いけないのかもしれない。
 にらみあったのは、たぶんほんの数秒だった。
「………ちょっとの間だけだよ」
 わたしはため息まじりに布団の端をはぐると、そこで「え、いいの」とか今さら驚いているバカの腰を軽く蹴った。
「誰が駄々こねたせいだと思ってんの」
「へへ…」
「あ、ちょ、あんまこっち寄らんでよ。伝染る」
「カズさん冷てぇー。えいっ」
「あーもう、ほんっとうっとうしいひとだなぁ!」
「そんなお前が好きだよって」
「云わねえよ」
「うん、云ってないね」
 大して広くもない布団の中でごそごそ距離を取ったり詰めたりしているうちに、少し肩が触れ合うくらいのところで、トイコさんが落ち着いた。はぁ、と吐く息が妙に安心しきっていて、聞いたこちらがどきりとしてしまう。何でこの人は時々こんな無防備なんだろうか。
「あったけー」
「はいはいよかったね」
「カズさん冷たい!」
「王将のセット今度おごってもらうから」
「じゃもうちょっと奮発するからもっとサービスしてよ」
「だが断る」
「ちぇっ」
 トイコさんはしばらくぶつぶつと文句を云っていたが、やがて薬の効果が現れたのか、徐々に静かになった。
 呼吸も規則正しくなってきて、もう寝たかな、と思う頃になってぽつりと云う。
「あのね、カズさん。ありがとうね」
「……さっさと寝てよ」
 つま先同士をぶつけると、靴下越しにもトイコさんの足は冷たかった。
「へへ…、雑炊も冷えピタも、ありがたかったよ。カズさん家は、誰か風邪引くとこうしてくれんのかな」
「……トイコさん憶えてないの?」
「なにが?」
「……べつに。ほら、ねえ、寝なよ」
「うん」
 あどけない子どものようにこっくりうなずいたかと思うと、トイコさんはすぅっと寝入ってしまった。わたしは首をひねって、その仰向いた横顔のやや鋭い鼻の先や、きれいな曲線を描く額を見つめた。あのときにも、わたしは布団の中からトイコさんの横顔を見つめていたのだった。ただそのときはトイコさんは起きていて、わたしの部屋にある小説本を勝手に手繰っていたのだったけれども。
 病人はわたしの方だった。わたしがまだこの寮に入って間もない、一昨年の春の話だ。慣れない一人暮らしに気疲れしたのだろうか、熱を出して起きあがれずにいたわたしのことを、トイコさんは付きっきりで看病してくれたのだった。
「……トイコさんだって、同じことしてくれたじゃん」
 何で憶えてないのかな。わたしはちょっと悔しく思いながら、暢気に寝息を立てる隣人のつま先に、起こさない程度の力を込めて、もう一度自分のつま先をぶつけた。冷たい足先にさわると余計に寒くて、わたしはもうほんの少しだけ、トイコさんの方に身体をすり寄らせてみた。すると不本意な眠気がとろりと忍び寄ってきて、あ、電気消さなきゃと思いつつ、わたしの意識もいつしか薄い闇の中へ引き込まれていた。



100220
「そんなお前が好きだって云ったじゃない」
「云ってねえ」
というやりとりは実はよく両親がやってたりします