「冬風邪」(3)


 正直なところあまり器用でないわたしは、片手にお盆を持った状態でその他のことをするのは苦手だった。階段をのぼって二階まで来るのも四苦八苦したくらいなのである。なので、今度はノックなしにトイコさんの部屋の戸を開けた。
「え」
 すると布団の中からこちらを見ていたトイコさんと、ばっちり目があった。トイコさんは素っ頓狂な面持ちで、切れ長の目を真ん丸くしている。わたしがここにいるのが信じられない、といった顔だ。
「どうしたの、そんなびっくりして」
「あ、いや」
 サンダルを脱いで部屋に上がるわたしをちらちらと目で追いながら、トイコさんは口ごもった。枕元まで来ると、うむむとうなりながらもぞもぞと顔を半分、毛布に埋める。そうして、
「…もう来てくれないかと思った」
 ずいぶん弱気なことを抜かすので、今度はこちらの方がびっくりしてしまう。思わず額に手を当てて熱をたしかめてしまったほどだ。もちろん風邪を引いているのだから熱はあるに決まっている。わたしもどうかしたらしい。自分の額に手を当ててみたが、こちらはすこぶる元気に平熱だった。
「え、なに、ほんとにどしたの」
「どうもせんわい」
 さすがにわたしの挙動にむっとしたらしく、トイコさんは眉根を寄せてにらんだ。
「愛想尽かされたかと思って殊勝にしてたのに」
「なんだ、そんなこと」
 気持ち悪いからやめてよ、と本気で云うと、トイコさんは本気で傷ついた、と真顔で云った。
「あれくらいで愛想尽かしてたら、あなたの友だちやってらんないよ?」
「あー、カズさん忍耐強いよな」
「忍耐って云うのかなぁ、それは」
 我慢とか忍耐とか、そういうゴテゴテした言葉とは無縁のつもりでいたので、わたしは首をひねりながら盆の上の丼を取った。気付いたトイコさんが、お、と鼻を動かす。雑炊の入った丼とわたしの顔を交互に指差し、
「……もしやそれはあたしの分?」
「もしかしなくてもあなたの分。どうせバイトのあと何も食べてないんでしょ」
「おお、心の友よ!」
 似てない物真似を披露してくれた。猫型ロボットの時よりは、声がしゃがれている分近いかもしれない。ていうか案外元気じゃねえか。
「ジャイアンしなくていいから、さっさとそれ食べて薬飲んで寝なよ。トイコさんこれ以上講義休むと単位やばいのいっぱいあるでしょ」
「嫌なこと思い出させるなあ、お前さんは」
「自業自得じゃん」
 ぶー、と口を尖らせながら、トイコさんは雑炊をがつがつ食べ、おとなしく薬も飲んだ。効くかどうかわからない市販の薬だけれども、飲まないよりはマシだろう。ついでに、ずいぶん前に買った冷えピタが部屋に残っていたので、それも額にはっつけておいた。手元でできる対処法としては、この程度だろう。
「これで明日も熱引かなかったら病院行きなよ?」
 冷えピタの上から額をつつきながら云うと、病院、のくだりにトイコさんは口をへの字に曲げた。
「あたし病院嫌ーい」
「嫌ってる場合じゃないでしょ。大体何、雪見酒って」
「何で知って……あ、イツコか!」
 トイコさんは忌々しげに舌打ちし、あんにゃろう、今度会ったらシメるべ、となぜか訛った呪詛を吐いた。訛り呪詛を吐ける立場か、あんたは。
「シメるべ、じゃないよ。あなた21にもなって雪にはしゃぐとかさ…」
 あの雪の降った翌朝、朝も早くから近所の子どもたちがはしゃぎ回って雪だるまをこしらえたり雪合戦をしているのを窓辺から見て、元気なもんだとしみじみしたものだけれども、まさか年上の隣人が同様のことをやらかして風邪まで引いていたとは夢にも思わなかった。それともトイコさんならやりかねないという考えに及ばなかったわたしが浅はかなのか。そんなことはあるまい。と、思いたい。
「だってさあ、このへんであんなに降ることあんまりなかったからさぁ」
 ついだよ、つい。トイコさんはふて腐れたように抗弁したが、つい、で風邪を引くほどはしゃぎ回られては、この先この人どうするんだろうと思わざるを得ないではないか。というわたしの気持ちは顔に出ていたようで、察したトイコさんが「バカにされた!」とわめくので、つい正直に「うん。した」と答えてしまい、最早すっかりいじけさせてしまった。
「もういい、寝る、カズさんがいじめるから寝る」
「うんごめん、いじめちゃったから寝ててよ」
「……カズさんの正直なところって時々すごい嫌味だよ!」
「嫌味で云ってんだから意を汲んでもらえるとありがたい」
「………」
 トイコさんは足をばたつかせて悔しがったが、そのうちぱたりと動きを止めて、心底疲れきったふうに大きくため息を吐いた。
「……目眩してきた」
「そりゃするだろ。もうほんとに寝なよ」
 どこまでも呆れさせてくれる御仁である。が、どうにもわたしがいるせいでトイコさんが寝付かないのだと気付く。お前いくつだと訊いてやりたいくらいだが、訊いたら訊いたで大真面目にを歳を答えそうなので、口を噤むことにする。
 わたしは食器類を盆に載せ、おとなしく寝るように云い含めて立ち上がった。というか、立ち上がろうと、した。のだが、できなかった。
 いつのまにやらトイコさんがわたしの服の裾を掴んでいたからである。



100211
どんどんトイコさんがダメな大人になっていくなぁと思っていましたが、わりと最初からダメでした