「冬風邪」(2)


 寮の台所は共同のものが一階にあるだけだった。日に灼けた、古くて大きな冷蔵庫のなかにはところせましと各々の食料が詰め込まれている(間違って食べられることも多いので、譲れないものには記名がされる)。冷蔵庫のとなりにはこれまた大きな五段に渡る棚があり、そこも下は米から野菜、上はレトルト食品まで、さまざまなものが載せられている。棚に載りきらない分は、それぞれが自室で保管する。
 わたしは部屋から雑炊の素と、昼に炊いた残りの米を持ってくると、流しの下から適当な大きさの鍋を探して水を張り、コンロにかけた。冷蔵庫の中からは、卵とネギを出す。鶏肉でも入れた方がよろこぶかもしれないが、肉なんてあるはずもない。正しい意味の肉食系の方々によって即日ソールドアウト、なのである。
 ネギを刻みつつお湯が沸くのを待っていたら、「お?」と声がした。イッコ先輩が、ものめずらしそうに目を丸くしていた。メイクを落とす前だから、まつげがバサバサ音がしそうなまばたきだった。先輩のまつげは、実に濃く、長いんである。
「こんな時間にごはん? カズちゃんにしちゃめずらしいじゃない」
 先輩は手にしていたカップラーメンの包装を引きちぎって、ぺっと可燃のゴミ箱に放った。わたしはそのビニルをプラごみの方に捨て直しながら、説明した。
「わたしのじゃないです。トイコさんが風邪引いちゃったもんで」
「あー、ありがと。って風邪ェ? トイコがぁ?」
 あいつバカじゃん。風邪なんか引くの?
 じょぼぼぼ、と電気ポットからお湯を注ぎながら、先輩は盛大に顔をしかめた。先輩は学年は一つ上だけれども、トイコさんとは同い年だから、二人とも遠慮なく仲がよい(お互いにそうは認めていないようだけれども)。
「まぁ、鬼の霍乱ってやつでしょうか」
「あー…あれかな。あのバカ、先週雪降ったとき夜中にはしゃいで出てったから、あれで身体冷やしたんじゃないかしら。雪見酒! とかいって」
「ああもうそれですね。ていうかやっぱりバカですね」
 一応トイコさんは年上なので立てたいところなのだが、そうもいかせてくれないのがトイコさんなのである。
「ねー、ほんっとバカなんだから」
 先輩はここで食べることにしたらしく、テーブルに座って箸立てから抜いた箸を二本、ふたの重しにした。ちょっとばかし浮いてしまっているが、先輩は気にしていないようだった。
「でもそのバカの面倒よく見るわよねえ、カズちゃんもさぁ」
「まぁ、隣人ですから」
 鍋の湯が沸いたので、雑炊の素を振り入れ、濃いめの味付けが好きなトイコさんに合わせていくらか調味料を足す。それから米を入れ、あとは煮えるのを待つばかり。卵を一つ、割って溶いておく。
 先輩は三分経たないうちに、カップめんのふたをとってしまった。
「それアガペーってやつ?」
 先輩は学内でも相当有名な別嬪なのだが、ラーメンを食べながら上目に見てくるので、どうにも間延びして美人じゃない顔になっている。そしてそれを指摘すると「あーん、その冷たい目でもっと云って!」とよろこんだ(先輩が熱を上げている教授とわたしの目元が似ているからなのだが、別にぜんぜん格好よくない加齢臭漂うおっさんなので、似ていると云われてもなったくもってうれしくない)。
「そんな大層なもんじゃないです。最終的には貸し借りゼロにしてもらわないと嫌だし」
「あはははは!」
 先輩はおかしそうに肩を揺らし、さすが夫婦、と納得した。こっちは納得しかねた。
「え、何すか、夫婦って」
「カズちゃんとトイコのバカに決まってるじゃない」
「や、決まってないです。永遠に決まってほしくないというか」
「ぶはははは!」
 先輩はテーブルに突っ伏して爆笑した。報われねー、報われてねーぞトイコぉ。と腹まで抱えて笑い出す。
「いやぁ、さすがカズちゃんね。冷静だわぁ」
「冷静にもなりますよ。やめてくださいそれ」
「えー、そんなに嫌?」
「嫌っていうか、嫌ってほどじゃないですけど、勘弁してください」
 あんな飲んだくれが夫でも妻でもお手上げである。
「あははは」
 先輩は愉快そうにカップめんの残りを一気にすすり上げ、「オゥ、熱い!」とのたうった。この寮にまともな先輩がいないのかと云われたら、声を大にして「いる」と云えないところが辛いところである。
 数分煮た雑炊に最後に卵をかけまわし、ネギをぱらぱら散らせて完成とした。それを器によそい、盆にのせる。
「えー、もう行っちゃうのぉ?」
「行きますよ、行かせて下さいよ」
「うん、まぁいいけど」
 先輩はなぜか冷蔵庫から新たに取り出したビールのふたを引いていた。
「これから飲むんすか」
「飲む飲む。舌熱いもん。カズちゃんあとで暇だったらおいでよ。来ないと思うけど」
「それ誘ってんですか拒否ってんですか」
「どっちも!」
 酒好きのくせに酒に弱い先輩は、早くも呂律の回らない声で云う。というか、内容も相当意味不明である。
「戻ってきたときに先輩が一人でいたら、そんときゃ付きあいますよ」
 でないと、このお方はどこでも寝てしまうのだ。台所ならともかく、廊下やトイレはこの時期気温的な意味で厳しい。第一、一年生が見かけておろおろする様が、容易に想像できてしまう。
 だからそう云ったのは本心だったのに、
「どうせ戻ってこないくせにぃ」
 先輩は端から信じてない声で、ばいびー、とわたしの背中に手を振った。




100209
お粥より雑炊が好きです。でも中華粥は別。