「冬風邪」(1)

 コピーしたいからと云うので一昨日貸した〈近代小説〉のノートをまだ返してもらってないことに気づいて、わたしはトイコさんの部屋のドアを叩いた。明日の一限が、その〈近代小説〉なのである。
「トイコさん、今いいかな?」
 現在時刻は十時。宵っぱりのトイコさんがまだ寝ているはずもなかろうと思ったが、勝手にドアを開けるのはやめておいた。前に一度ノックを忘れて開けたら、ドミノ倒しの駒を並べていたトイコさんを驚かせてしまい、ひどく恨まれたことがある。
 もっとも向こうは、よく勝手に開けて入ってくる。
「おー、おきとるよ」
 意に違わず、トイコさんはやはり起きていた。ただ、その返事にわたしは若干の違和感を感じないでもなかった。どこが変、とも云えないのだけれども、だがやはりいつものトイコさんの声ではない気がした。
「トイコさん?」
 横に引くかたちの戸を開けて、わたしは絶句した。
 トイコさんが上半身ハダカでいらした。からではなく、そのトイコさんがタオルを手に、まさかまさかの乾布摩擦めいたことをしていたからだった。
「え、…乾布摩擦、じゃないよね?」
「見てわからんか。乾布摩擦だ!」
 とトイコさんは云いたかったようだけれども、実際は乾布の「かんぷ」を云いきらないうちに「ぶぇっきし!」と派手なくさめを放っていた。わたしはその飛沫を上手いこと戸の陰に隠れてやり過ごし、顔をしかめた。
「トイコさん…風邪ひいたね」
「うんにゃ、まだ引いちゃないぞ」
 そう云う声が、すでに相当な鼻声だ。顔は赤いし、目もすっかり潤んでどことなく焦点が合ってない。先の違和感の正体はこれだったかと、わたしは得心して部屋の中に入った。
「あきらめて認めなよ、立派に風邪引いてるじゃない。…こんな寒い部屋にいるからだと思うけど」
 サンダルを脱いだ足元から、じわじわと冷気が這い上ってくる。靴下二枚重ねばきをしているにもかかわらず、何らの効果も見られぬ冷えようである。部屋の隅を見やれば、そこに鎮座する電気ストーブはやはりついていなかった。トイコさんは、暖房の類をほとんど用いないのだ。
「いや、まだ…まだ、あたしの戦いは終わっとらんぞ!」
 使い古したタオルを握りしめ、熱弁を振るうトイコさんの肩に、わたしはそこらに落ちていたシャツを適当に羽織らせた。
「もう終わってるよ、完全に負けてるよ。だから頼むから服着て。見てるこっちが心折れそう」
「えー」
 トイコさんは渋ったが、それからもう一発大きなくしゃみを放った段になってようやく観念したようだった。シャツの袖に腕を通しながら、
「だってあたし冬に風邪引いたことなかったんだぜ」
 ずずっ、と鼻をすすりながら云う。わたしは床にこんもりとしていたトイコさんの洗濯物の山を勝手に漁って、比較的地の厚い服を引っ張りだした。
「あー、トイコさんは夏に風邪引くタイプだよね。バカだもんね」
「……たしかに夏によく引くけど、そうストレートに云わなくてもいいじゃねえか!」
「当たってたのか」
 冗談だったのに、さすが大うつけのトイコさんである。感心しながら、その発掘した服をシャツの上から掛けてやった。それから、押入に丸めて突っ込んであった布団を出して敷く。畳の上に転がっていた書籍やプリントは、足で適当に寄せて固めた。その間トイコさんは「あー」とか「うー」とか云いながら、そこらを右往左往していた。たぶん「いいよ自分でやるから」的なことを云いたかったんだろうけれども、身体がついていっていないようだった。邪魔だったので、「そこらで丸くなってて」と云ったら窓の下で体育座りをはじめたので、あとの作業はスムーズに進んだ。トイコさんの恨めしげな視線は、やっぱり邪魔だったけれども。
「はい、もう寝てなよ」
「え、乾布摩擦は」
「悪化させたいならどうぞ勝手にやれば」
「…寝ます」
「良い子だねー、トイコさん」
「カズさんって時々本気でひどい人だよね」
「何云ってんの、こんな親切な隣人そうはいないよ」
「……」
 トイコさんは何かもの云いたそうに口を開きかけたが、しゃべらせるとまたろくなことを云いそうにないと判断して、上から無理矢理毛布をかぶせた。電気ストーブも引き寄せて、勝手につけてしまう。だいたいトイコさんが暖房を使わないのは窓につく結露を厭ってのことなのだけれども、こんな寒くては暖房を使っても使わなくても、どっちにしろ結露はつくのだ。いくら洗剤を含ませた雑巾で拭いたりしてもつくのだから、最早如何ともしがたい。
 やがて顔の上半分だけを出したトイコさんが、じとっとこちらを見上げた。
「……カズさんはさぁ、人が大事なこと云おうとすると聞いてくれないよねえ」
「なに、大事なことって」
 暑すぎず、寒すぎず、ストーブの位置を調節しながら訊き返す。トイコさんはしばらくそんなわたしを見ていたが、そのうち小さくため息を吐いて、毛布にもぐり込んだ。
「別に、もういいもん」
「もういいもんって…、あんた子どもかよ」
 呆れて上掛けのうえからトイコさんの額のあたりを小突いたが、トイコさんの反応は
「カズさんのバーカ」
 であった。わたしは黙って額をはたいた。
「トイコさんまだ薬とか飲んでないでしょ」
「…こんなん寝てりゃ治るから良い」
「乾布摩擦しようとしてた人がよく云うよ」
 わたしの中で乾布摩擦なんてするのは磯野さん家の波平だけであったのだが、今日めでたく二人目が記録されたわけだ。トイコさんは、拗ねたように寝返りを打ってこちらに背を向けた。
「カズさんのバーカ」
「まだ云うか」
「ばーかばーか」
「トイコさん」
「ばかばかアホちん」
「……」
 わたしは肩をすくめてトイコさんの部屋を出た。トイコさんは、ずっと背を向けたっきりだった。




100207
乾布摩擦はほんとに効くのかどうか、気になるところです