「はつなつの夕べ」


 片割れがいないので静かになるかと思っていたのに、その愚痴の矛先がこちらに来るのは想定していなかった。最悪。あたしは迷惑だというのをわかりやすく盛ッ大なため息で表現してやったのだが、向けられた迷惑であるところの張本人、落合トイコのアホたれはそんなこと気にも掛けやしないのだった。
「うー、何で三日もいないんだよ、カズさんさぁ。実家なんかもうどうでも良いじゃんね? うちらもう大学生だよ? 独り立ちしようよ?」
 普段は誘っても来やがらないくせに、今日は呼んでもないのに勝手に上がりこんで、持ちこんだ酒を飲み飲み赤い顔をさらに紅潮させてかこつ。まったくもって迷惑な酔っぱらいなのである。あたしはせめて迷惑料くらいは頂いてやろうと、トイコの酒瓶を傾けて、コップにぐいぐい注いでやる。日本酒はあまり好きでないのだが、そこは仕方ない。飲める酒なら何でも良いのでふんだくってやることにする。
 窓の外を見るとまだ日は沈みきっておらず、GWの最中だからといってこんなあかるい時分から酒盛りだなどと、実に最低な有り様である。でも大学生だから良いや、と思うことにする。だって大学生なのだ。
「それはそれ、各々家庭の事情ってもんがあるでしょ。あんた、自分が実家と上手くいってないからってよそん家までそういうの押し付けるの、ちょう迷惑」
「ぐ…」
 そこは自覚があったのか、トイコは押し黙ると、ちくひょー、とすでに呂律の回っていない舌で吐き捨てて、湯飲みに残っていた酒を呷った。実家と上手くいっていない、というのはちょくちょくと聞いたりあたしの察するところからの鎌掛けだったのだが、これはどうやら本格的に断絶しているのかもしれない。寮や下宿に入る子の中には、そういう事情の子もけっこういるのだ。
 それにしても酒にばかりは強いこのアホが、呂律を怪しくさせているということは、すでに相当な量を腹におさめているに相違ない。大体、あたしの部屋に来たときからすでに顔が赤かったのだ。こりゃ絶対明日は宿酔いだろうな、とその面倒を見る羽目になるのが確定している自分に対して、哀れみを覚える。べつにほっといてもいいのだが、あとで「イツコは面倒見てくれなかった」なんて周りに泣きつかれると、あたしのイメージにちょいと関わってしまう。つい一ヶ月ほど前に入ってきたばかりの新入生たちには、できるだけ良い顔を見せておきたい。それは後々、めぐりめぐって自分のためにもなるからだ。情けは人のためならず、というわけ。
 というか、この面前でふて腐れているアホもその新入生のはずなのだが、一浪しているために実際の歳はあたしと同じで、そのせいかしらん、やたらに図々しい。大体こいつが新入生歓迎会の席で浮かれて「イツコって云いにくいからさぁ、イッコでいい?」なぞと云ったせいで、あたしは「山城先輩」から「イッコ先輩」になったのだ。今年は知性的なイメージで攻めるつもりだったのに、なんだか締まらない。しかも、そう云った当人はそのことをすっかり忘れて、翌日からはまた「イツコ、イツコ」と呼びやがるのである。
 この狐面を一度思いきりぶちのめしてやろうと思うのだが、
「でもさぁ、さびしいよぅ…」
 などとすっかりしょげた面を見せられると、どうにも、気勢をくじかれてしまう。整った顔をしているくせに感情表現が派手に極端なところがあって、そのアンバランスさが、このアホ女の愛嬌になっていることは否めない。本来なら親しみにくい顔立ちのはずなのだが、なつかれると、どうもほっとけない気にさせるのだ。南無三。
 ちなみにこいつがさっきから恋しがって泣いているのもその愛嬌にほだされてしまった被害者で、部屋はトイコのとなり201号室、同じく今年の新入生である幕田カズミだった。こちらはしゃきしゃきしたトイコとは対照的に始終ぼんやりして、正直何を考えているのかわからない、ちょっと不気味な子なのだが、何が気に入ったのかトイコはこの寮に入ったその日のうちに幕田嬢の部屋に上がりこみ、いっしょに引っ越し蕎麦まで食べたということだった。もしトイコの家庭の事情があたしの考えている通りに、あるいはそれ以上に複雑で根深いものだったとしたら、幕田は運悪くそのさびしさを埋めるのに付きあわされているだけかもしれない。
 ただ、いつだったか玄関でたまたまいっしょになったとき、
「あの馬鹿になつかれちゃあ、大変でしょ?」
 と訊いたところ幕田は例のうすぼんやりした、ぼそぼそした声で
「騒がしいのは慣れませんけど、でもなんか、ほっとけないんですよね」
 と答えたものだった。その顔が、さほど嫌そうでもないところを見ると、案外幕田の方も、珍種ともいうべきこのアホとの生活を楽しんでいるのかもしれない。そしてこの折の幕田の言葉は、そのときはそういうものかと思ったが、今となってはすっかりあたしの実感でもあった。
 めそめそと、鼻をすすりたいのか酒をすすりたいのか、机に突っ伏して口元をきたなくしながらしょんぼりするトイコの額を小突いて、
「おら。あたし湿った酒は嫌いなの。だから、飲むなら明るく飲むわよ」
「う…、イツコしゃーん」
「しゃん云うな、このアホ」
 うぇうぇと泣きながらまた酒を呷るトイコに合わせて湯飲みを傾け、ぷはー、と酒臭い息を吐きながらあたしは苦笑いする。このアホが迷惑を振りまくとんだ疫病神であるのは、まちがいない。でも、やっぱりなんかほっとけない。
「あんた、この借り高くつくからね」
「出世払いで払ったるやーい」
「本気かよ」
「本気本気」
「じゃ、その出世払いに」
 あたしがにやりと笑って湯飲みをかかげると、おっしゃー、とトイコも危なっかしい手つきでコップをささげ持つ。
 かつん、とぶつけ合った酒器は、思いのほかいい音がした。



100502
まだ幕田と落合が入学したての頃の話
幕田のイメージが悪すぎて自分でもどうかと思ったが一応主人公です。主人公です(大事なことなので二回云いました
鈴本とイッコ先輩の話はまた別の折 に!