■幕田さんと落合さん (9)


「カズさんはさぁ…」
 やがて、そのうちぽつりとトイコさんは云った。云ったが、そこで言葉は切れていた。そのあとに何か言葉がつづいて、それを飲みこんだ。というふうではなかった。ただ単純に、口にしてみただけ、という感じだった。トイコさんは、迷っているのかもしれない。わたしはふとそのように思いついたが、何に迷っているのかまではわからなかった。トイコさんがわからないのは常のことなのに、常になくもどかしく感じた。でも寒かったから、そのように思っただけかもしれない。わたしはぶるりと身震いをひとつして、かじかむ手に息を吐きかけた。息の当たったところが湿っぽくなって、すぐに冷えていく。凍ったように冷たい、のか、冷たくて凍りそう、なのか、これはどういうんだろうかなぁ、と眉間に皺寄せてみる。わかろうはずもないことを、考えるのは、けっこう嫌いではない。わかろうはずもないことは、常に曖昧だった。朝と夜の境目で、わたしは何をはっきりさせようとしているのだろうかと思った。何一つここではっきりできるものなんかない気もしていた。冷気に当てられた頭が、ぼおっとしてきた感もあった。
 トイコさんは、また煙草の灰を落とした。落としたことに、ちょっと時間が経ってから気付いて、顔をしかめている。今度は、ジャージの膝のあたりに落としていたのだった。あー。口が、そんな加減に薄く開く。白い息が、トイコさん本来のものなのか、煙草のけむりなのか、判別できないままひゅうっと流れていく。
「カズさんのせいだよ」
 灰をはたき落としながら、憮然としてトイコさんは云う。
「くそー、馬鹿面さらした」
「うん、目に焼き付けた」
「忘れろ」
「や、無理」
「なんだ、カズさんのくせに」
「なんだよ、トイコさんのくせに」
「あーあ、カズさんのくせにさ…」
 やさぐれたようにトイコさんは携帯灰皿に煙草を押し付けて、かと思うと
「うはははははは!」
 いきなり高笑いされたので、さすがにぎょっとする。が、そんなわたしにはかまわずトイコさんはばちばちと肩を叩いてきて、
「そうか!」
 深く、うなずいた。そしてまた、そうかぁ、とひっそりくり返した。二回目の「そうか」はなんだかしみじみとして、わたしは痛いよという言葉を飲みこんで、そうだよ、と答えておいた。答えてから、トイコさんの云うさびしさと、わたしの抱えているさびしさは、もしかしたらまったく別物なんじゃないかという考えが急に頭の中をよぎった。他人同士なのだから、同じでないのはあたりまえだ。でもたいていはどれも、似ている。似通ってくる。わたしがふと感じたのは、トイコさんとわたしのそれは、違っているけれど似ている、のではなく、似ているけど違う、のではないかということだった。どこが似て、どこが違うのか、明記せよ、と云われたら困るのだけれど。
 トイコさんは新しい煙草に火をつけ、にやりと口の端を持ち上げた。
「カズさんは策士だな」
「…ま、たまにはね」
 へへ、とトイコさんは鼻に皺を寄せて笑い、ブランコから投げ出した足をぶらぶらゆらした。こちらの方が照れくさくなるみたいなはしゃぎ方をする人だった。こういう、あからさまな何か、をわたしはぶつけられたことがないので、困るのだった。わたしはなんとなくそわそわしながら、影絵のような町並みに目をやった。
「お」
 という声は、トイコさんのものだったか、わたしのものだったか。にじんだように橙色に燃えていた東の空から、ぴり、と引き裂くように白い光が現れたのだった。
「あけるぞぉ」
「だねぇ」
 それはこの美しい景色からすれば、実に気の抜けた会話だった。でもこんな景色が、毎日毎日地球が廻るたびに(たとえ雨でも雲の向こうで)くり返されているのであって、本当は物珍しくも何ともなくて、わたしが知らないだけだった。わたしが知らないこと、というのはたくさんあって当然なのだったが、わたしは今さらのように、知らないことってけっこう多いものだということを知った。わたしが知らなかったこの景色をトイコさんは知っていて、たとえばキリンの睡眠時間は一日十分程度だとか、じゅげむじゅげむの全内容とか、トイコさんの知らないことをわたしは知っている。でもわたしが知っていることをトイコさんが知らなければ、それは知らないと同じなんだろうか。トイコさんの知っている、わたしの知らないこと。というものについて、わたしは朝日に顔をしかめながらちょっと考えた。考えてわかるものではないな、ということはすぐにわかった。相手がトイコさんだというのは、とても難問だと思った。
「朝日って、いやに強いね」
「だからあたしは好きなんだがね」
「はじめて見るから、こんなきれいに見えるのかな」
「何度見ても、いいもんはいいだろうさ」
 トイコさんは細く細く息を吐いて、
「あたしの勘違いだったからいいんだけどさ。引っ越すんなら、最後にちょっと見せておきたかったんだ」
 小さく、云った。トイコさんらしからぬ大袈裟な物言いだった。わたしは苦笑いして、靴の先で砂の上に丸を描いた。
「最後って。もし越してたとしても、遊びにくらい来るよ?」
 そうかな。トイコさんは、微苦笑を浮かべて首を振った。
「はなれちまうと、どうも心配でな。まただめなんじゃないかって」
 また。その一言が、耳に引っかかった。わたしが気付いたことに、トイコさんもすぐに気付いた。失敗した、って顔で、下唇をつき出すようにして煙を吐いた。
「まだ酒が残ってたかな」
「…いつもの量に比べれば、何てことないでしょ」
「そりゃそうだ。言い訳にならんな」
 云って、トイコさんはいきなりわたしの頭をとん、と叩いた。
「な、なに?」
 痛くはないけれども、驚きはした。うはは、とトイコさんは笑って、
「今ので忘れてくれ」
 切実な声で云った。顔はふざけているのに声は真面目で、わたしはどうしようもなく、うんとうなずいた。そうとしか云えなかった。忘れられないのが、かなしかった。
「まぁ。もうしばらく、よろしく」
 わたしはごまかすために、早口でそう云った。うむ、とうなずいたトイコさんも、たぶん何かをごまかした。
「よし、寮戻って飲み直すか」
 ブランコから立ち上がって、猫のように伸びをしながらトイコさんがうれしそうに提案する。
「…朝なんだけど」
「北条氏康は、失敗を避けるために朝酒を奨励したと云うぞ」
「誰それ」
「さぁ。政子の旦那あたりじゃなかったっけ」
「それ頼朝だよ」
 眼下の町並みは、朝の光のなかに埋もれようとしていた。何でも見えるようで、何も見えないような、そんなにもまばゆい光だった。わたしたちは連れ立って公園を出、もと来た道をたどった。もしこれが本当に最後だったら、と思うと、その道の端々に、トイコさんのさよならが見えるような気が、少しだけした。




100121
途中からメモ帳の下書きとあんまり違う展開になってきてどうしようかと思いました
とりあえずこれでサイト連載分の幕落は終わりです。お付き合いくださいましてありがとうございましたー