■幕田さんと落合さん (8)


 夜は着々と明けていた。暗闇に沈みこんでいたものの輪郭が、すこしずつ、確実に浮き上がりはじめる。夜の底を押し上げるようにうすらうすらとあかるくなっていく東の空。赤々と燃えはじめたそこに、一筋の白線がじわっと広がっていく。幻みたいに漂っていた薄い雲が、実体を持って目に映るようになる。でもなんとなく、あれはちゃんと本物なのだろうかという自信のなさもある。
「ねえ、トイコさん。あの雲見える?」
 もしかして見えているのはわたしだけなんじゃないか、なんて思って、空を指しながら隣人に尋ねた。トイコさんは
「くもぉ?」
 語尾を跳ね上げてわたしの指の先を追い、
「あー…あの、ゴジラの尻尾みたいなやつ?」
「おお、そういう見方もあるのか」
 エビ天みたいだなあと思っていたわたしは、ほっとしながら答えた。トイコさんにもちゃんと見えているらしいそれは、もしかしたら全然別の雲なのかもしれないけれど、目の前に見えている風景全部が幻じゃないのだとわたしは安心して、そう。あれあれ、と云った。トイコさんは口をへの字に曲げて、ため息みたいに煙を吐いた。
「カズさん、あたしの話聞いてたよな?」
「え?」
 そりゃもちろん、とわたしはうなずいた。こんな寒くて、一対一で話していて、トイコさんが真面目で、どうして聞き流せるというのだろう。にもかかわらず、トイコさんはわたしの顔を疑わしげに眺めまわし、挙げ句煙草をくわえたくちびるを拗ねたように尖らせた。
「カズさんは、時々突拍子もないことを云い出すから困る」
「いつも突拍子ない人には云われたくないなあ。それに、ほんとにちゃんと聞いてたよ」
「ほんとかよ」
「うん。寮、出ないよ」
 かじかんだ手に息を吐きかけながら云った。まともに動かすのも難しいくらい冷えきっているのに妙に赤くて、なんだか自分の指先に裏切られている気分だ。寒いなら寒いなりに、青くなればいいのに。でも赤かったり青かったり、リトマス試験紙みたいなのはちょっと嫌かもしれない。
 トイコさんは、くわえた煙草の先からぽとりと灰を落とした。
「……ほんとに?」
「ほんとだよ」
 めずらしく動揺しているトイコさんに、わたしは笑いながら答えた。
「だって寮出てくなんて云ってたこと、今トイコさんが云うまで忘れてたくらいなんだよ」
 そうなのだった。正直、自分がそんな予定でいたことすらすっかり忘れていた。単位は、三年からは楽したいからと思って取れるだけ取っていたし、バイトも、小遣い稼ぎでやっぱり入れられるだけ入れていた。寮を出るためという目的は、いつの間にか頭の中からすっぽり消えていた。
「すげえボロいけどさ、寮暮らし楽しいから」
 今の生活を変えようというつもりは、まったくないのだった。翌日確実に腹を下す闇鍋も、泥にまみれて怪我をこさえるばかりのサバイバルゲームも、こんなクッソ寒い早朝の散歩も、ばかばかしいとかわりに合わないとか思っても、最終的には、楽しい、と思うのだった。さびしいというならば、それらのない毎日を思う方が、わたしはさびしい気がするくらいなのだ。慣れとは怖い。毒されているのかも、しれない。でも、悪くないと思う。だって、多分こんなことができるのは一生のうちできっと今だけだ。この先、似たようなことはできるかもしれない。けれど明日のことを考えず、明日の無造作に信じて馬鹿をやれるのは、今だけじゃないだろうか。それもこれもこんな頓狂な隣人がいるからで、わたしはこの隣人のことが気に入っていて、それがいつからだろうかと思うと、案外いっしょに引っ越し蕎麦を食ったあの初対面の日からそうなのかもしれない。とすると、この日々をこの隣人抜きで考えるのは、大層難しい。
 その当人は、いまだにぽかんぽかんした間抜け面のまま、である。




100110
今日六年間通った大学への道を久しぶりに通ったら、ちょっとしんみりしました