■幕田さんと落合さん (3)


 夜明け前なので、当然空は暗かった。これから二三時間の後にはこの夜が明けて、あかるくなるなんて、とても信じられないくらいには暗いのだった。こんな時間に外に出るなんて初めてだったから、陽ののぼる前がこんなに暗いだなんて知らなかった。そして、ひたすらに静かだった。町は全体にまだ眠りのなかで、新聞配達のバイクが去ると、雪のなかにいるみたいにひっそりした。もう二年近く住んで歩き慣れているはずの道も、宵とはまた少し違う、しんとした暗さのなかで歩くと、よく似た別の道のように思われた。あるいは、まったく別の知らない道のようにも思えた。
 寒さに首を引っこめたまま、遭難者みたいにそこらを隙なく見回しながら歩いていたわたしは、
「あ、こっち」
 と慣れた様子で足を動かすトイコさんに、ぐいと腕を引っ張られた。駅ではなく、どうやら大学の方に向かっているみたいだった。向かっているみたい、といっても、そもそも目的が散歩だと云うことらしいから、トイコさんもあまり考えていないのかもしれない。もっともそうだとしたところでわたしはもっと何も考えていないので、結局はトイコさんの足に任せるしかないのではあったが。
「トイコさん、もしかしてこういうことけっこうやってる?」
 迷わない足取りから判断して訊くと、やはり「ああ」という返事であった。
「だろうねえ」
「なんで?」
「悠々としてるもん。…まぁ、トイコさんはいつもだけど」
 誉めたつもりはなかったのだが、まぁな、と何故かトイコさんは誇らしげだった。寮生のみんなでトランプやゲームをしているとき、どんなピンチでも平生を崩さず鷹揚と構えているトイコさんにはちょっと感心する。でも今は誉めてないので、誇らしくされても困る。
「云っとくけど、誉めてないよ」
 早めに釘をさしておこうと、訂正した。
「なんだ。じゃあ讃えてくれてるのか」
 そうだった、訂正のまるで意味のないことを云うのがトイコさんであった。
「誰がするんだよ」
「そりゃあカズさんしかいないだろう」
「おめでとう、おめでとう」
 わたしは盛大にやる気のない拍手を送った。パチパチ、という音すらしなかった。
「エヴァくせえ…」
 トイコさんは渋面を作り、もういい、と手を振った。
「カズさんは嫌味だ」
 子どもっぽく口を尖らせるトイコさんの横顔が、ほの白く街灯に照らされる。髪をひっつめてさらした額から鼻筋の細いラインが、時々本当に美しく見える。トイコさんはきれいな人だけど、変な人でもある。
「ところでさ」
「うん?」
「…さっっっっむいんですが」
 寮を出てからだいぶ歩いたが、歩いてもまだ寒いのだった。服の上から、むき出しの冷気に抱きしめられているみたいなのである。
 トイコさんは、そうだな、と沈思した後、
「あっためてやろうか?」
 両手を広げて云うので、思わず額にチョップをかましていた。
「おお…、カズさんの照れ隠しは強烈だ」
「誰も照れとりゃせんわい。何かあったかいの買ってよ。もしくはそのカイロ頂戴よ」
 銀行強盗がするみたいに、催促に手を差し出す。トイコさんはその手をつまらなさそうに見やって、
「何だ、そんなことか」
「そんなことだよ」
「ちぇっ」
 ジャージのポケットをじゃらじゃら小銭で鳴らしながら、トイコさんは茫漠とした光を放つ自販機に向かっていった。




091214
最近仕事行くのに外出ると夜明け前でうんざりします