■幕田さんと落合さん (1)


 そろそろ布団に入って寝ようかという時刻になってノックと同時に部屋に上がりこんできたトイコさんは、いきなりわたしに指を突きつけたかと思うや
「夜明け前だ!」
 叫んだ。
 とはいえもう日付が変わろうかという時刻なのだった。いや「もう」というより、「まだ」の方がいいのかもしれない。とりあえずわたしは、布団に片足突っこんだままぽかんとしていた。そして、
「え、と、藤村?」
 なけなしの文学的知識をかき集めてみたのだが、
「ちがーう!」
 トイコさんは腕を唐竹割りに振るって否定した。
「夜明け前に散歩に行こう。というお誘いなのだ」
 腕組みをし、自信ありげに云い放つトイコさんは長身とその整った相貌も相まって大層素敵なのだったが
「…は?」
 と、当然わたしはぽかんとした顔にさらにはてなマークを重ねた。わけなのだが、どうして現在、夜明け前の町中にいるのだった。
 何故いるのか。
 答えは簡単だ。
 トイコさんが叩き起こしにいらっしゃったからである。
 大学の寮とは、こうしたとき実に不便なものである。こうしたときとは、つまり極めて身勝手な友人と隣室であったときなどを指すのだが。
「さっむ! なにこれ! さっぶ!」
 現在時刻は四時。新聞配達のバイクの音が、同じ町内のどこかを走りまわっているのが聞こえる。が、それだけだ。星々のまたたき、とかよく本で見かけるけれど、本当にチカチカとかすかな、儚い音が聞こえそうな気がする。それっくらい、静かな時刻だった。
 眠気などは、布団から引きずり出された時点ですっかり失せていた。なにせ部屋の中にいてさえ吐く息が真っ白いのだ、このオンボロ寮は。寒すぎて、眠いなどと云っていられない。云う暇があったら、足踏みだ。というか、云いながら足踏みだ。早く早くと急かすトイコさんに、ちょっと待ってよと謝りながら(だがしかしなぜわたしが謝らなければならなかったのか)、慌ただしく着こんだヒートテックのまがい物ババシャツ、ブラウス、セーター、ズボン下(スパッツともレギンスというにもおこがましいような、それはそれはふるびた毛糸のズボン下なのである)、コーデュロイパンツという、この時期では私的に最強の組み合わせも、まったく歯が立たない。まがいもんがやっぱダメなのかもしれない。
 トイコさんはといえば、こんな時間に散歩しようというくらいの大バカ者なので、やはりその服装も大いに大うつけであった。ジャージなのだった。
「え、その下なに?」
 しかもそのジャージも、あんまり高そうでない、そこらのスーパーのセールで買ったような、ペラッペラのものなのである。その上は何も羽織っていない。下に着こんでいる様子もない。トキコさんは、そのくせさして寒くもなさそうに、ジャージの裾をまくって見せた。
「聞いて驚け、正規品のヒートテックのTシャツだ」
「だけ?」
「うむ」
「…ばかじゃね?」
 今現在の気温を知っているのか。わたしは知らないが。でもぜったい一度とか零度とかそのへんだ。だってこんなに寒いんだもの みつを。
「失敬だな、お前は」
 トイコさんは顔をしかめながら、裾をさらにまくり上げた。するとそこには、目下切り札としか思われないアイテムが貼り付けられていた。ホカロンである。しかも両脇に二枚である。ホカロン×二枚なのである。ホカロンが二枚なのである。大事なことなので三回云いました。これはたとえて云うなら天国にサンドイッチされているようなものではないか。
「うわ! 裏技! ずっりぃ!」
「うはははは、ザクとは違うのだよ、ザクとは」
「わたしがザクですかい」
「まぁな。ちなみに腰にも貼ってあるのだ」
「なんだそれ、一枚ちょうだいよ」
「もうない」
 しれっと云ってのけたトイコさんは、じゃあ行こうか、とさくさく歩きはじめてしまう。上半身は完全防備なくせに、寸足らずのジャージの裾からはくるぶしがひょこひょこ見えかけてやっぱり寒そうだ。道路端の電信柱の灯りもちらちら頼りなくて、わたしは置いてかないでよと慌ててその背中を追うのだった。




091208
大学生のぐだぐだな話が書きたかったのでした。こんな感じで続きます