■マイムマイム


 小さいおじさんと目があった。
 小さいおじさんは小さいおじさんであって、他の何者でもない。灰色の背広を着て、なぜかその上に腹巻きを巻いている、髪の毛の少しさびしい、わたしの手のひらより少し小さいくらいの、おじさん。
 そのおじさんが、部屋で宿題をしているわたしの目の前に、現れたのだった。息抜きに顔を上げたら、そこにいたのだ。
「あ?」
 というかたちにわたしは口を開けた。唖然としたのであって、決して凄んだわけではない。ではないのだが、おじさんはびくりと身をすくませると、そそくさと机の上に立ててある教科書類のかげに隠れてしまった。じっと見ていると、やがてこそっと顔を出す。
 物理の青い背表紙の横で、おじさんは赤面していたのだった。ほんのりと赤く染めた顔を心もち傾げて、わたしを上目に見つめるのである。それはもう、羞じらい、というやつであった。おじさんが含羞するので、わたしにもその含羞が移ってしまった。わたしもうつむきがちに頬を染め、ちらちらとおじさんを見た。おじさんは鼻の下にヒゲがあって、豊かなお腹をしている。腹巻きが伸びきって、たゆたゆしている。さびしき頭部から生えている毛は一本、二本。目元は柔和そうだが、息は臭そうだ。
 やがておじさんはよたよたと危なっかしくわたしの前におどりでた。半分くらいしか解けていない数学の問題集の上に乗っかって、ぺこぺこするページの上でトランポリンみたいにからだを跳ねさせながら、ぺこんっ、とお辞儀した。お腹につっかえて、ぺこんっ、と音がしそうなのだった。
「これはこれは」
 あわててわたしも頭を下げた。本日はお日柄もよく、絶好の怪奇現象日和です。とか云おうと思った矢先、顔を上げるとすでにおじさんの姿はなくなっていた。問題集が、多少ぺこぺこしていた。それだけだった。


「っていう、ことがあったんだけど昨日」
 後ろ向きにイスをまたいで座りながら昨夜の模様を説明してみたわけなのだが、向かい合っているユカはといえば、机の上にあんぱんに付いている黒ゴマをひとつぶひとつぶずつ並べるのに気を取られているのがありありとわかるのだった。
「ねえ、ちょっと聞いてよぉ。おばさんさびしいじゃん」
 おばさんといってもわたしの方が誕生日が一ヶ月くらい早いだけなのだが、ユカにはよくおばさん呼ばわりされるので、そう云って「よよ…」と泣いてみせる。
「聞いてるよ」
 そう答えるくせにユカは並べ終えた黒ゴマをちょっと遠目に写メして、
「蟻」
 などとわたしに見せるのだった。聞いてねえだろ。
「や、聞いてる。聞いてた。ほんとに」
 黒ゴマはただ蟻っぽくしたかっただけらしく、ユカは携帯を閉じると、上に何も付いてないあんぱんをかじりながら至極真面目に云った。真面目な顔をすると、ユカの小鼻はちょっとふくらむ。鼻の上に乗っかった、赤いセルの眼鏡もかすかに上下する。
「小さいおじさんってよく話に聞くけど、実際に会ったっていうのはさっちんが初めてだよ」
「え、有名なのアレ?」
「比較的」
 紙パックのリプトンをちゅーっと吸い上げながら、ユカはこくりとうなずく。日替わりのユカのリプトンは、今日はマスカットティーだった。わたしは毎日おーいお茶(濃いめ)だ。購買に入るリプトンは、毎日ミルクティーだったりレモンティーだったりアップルティーだったり、ころころ変わるのだった。おーいお茶はなぜか濃いめだけで固定だった。
「結構ネットとかで見かける、小さいおじさんの話」
「へー」
「見ると幸せになるとか」
「おおっ」
「反対に不幸になるとも」
「な、なにィ…!?」
「実際のとこはたぶん何にもないんだろうけど」
 わたしを一喜一憂させておきながら、その一言でユカは済ませた。結局どっちなんだよ。
「まぁ、あれ? 都市伝説ってやつ?」
 二個目のおにぎりのパックを破りながら訊くと、そう、とユカはうなずいた。
「信憑性高そうだとは思ってたけど、実話だったぽいね」
「実話だよぉ、わたしが見たんだから」
 ところでわたしは毎日中食はコンビニおにぎりなのだけれども、このパック破りが上達しなくて、いつも海苔が裂けてしまう。海苔のカスがひらひら机に落ちて、ユカの作った擬似蟻の行列の上に降りつもる。積もるってほどの量ではないけど。
「でもあんた全然疑わないのな」
 裂けた海苔をつぎはぎしつつ、おにぎりにかぶりつく。今日の具は昆布とツナマヨとエビマヨだ。マヨづくしは、わたしの至福の一時でもある。もっとも毎日おにぎり三個のうち二個はこのマヨマヨコンビなんだけど。
「ユーレイとか、ヨーカイとか、信じない子は全然信じないじゃん?」
 修学旅行の時とか、部屋でそういう話で盛り上がったとき、ナイよ、ナイナイ、なんて頭ごなしに否定されると白けるものだが、そういう人種は確実にこのクラス内にも存在するのだった。と、若干頭にキた思い出を回想しつつ、わたしはといえば、面白いのでなんとなく信じて大いに盛り上がる方だったのだけど、よもや自分がその当事者になるとは思ってもみなかった次第である。
「まぁね」
 ユカは食べ終わったあんぱんの空き袋に机の上の黒ゴマやら海苔カスやらをすーっとひとさし指でまとめて捨てると、
「慣れてるし」
 あっさり、云ったものだった。
「え、あんた霊感強いん?」
 件の怪談で盛り上がった修学旅行のときだって同じ部屋だったのだが、そんなことは一言も云っていなかった。もっともユカはあまり自分から積極的にしゃべる性格ではないので、話を振らないかぎりは黙ったままのことが多いのだが。
「かもしれない」
「金縛りとか会う方?」
「それもたまにあるけど、家鳴りはよく会う」
「ヤナリ? なにそれ、イモリの仲間?」
「いや、ポルターガイスト」
「……あー」
 ポルターガイストと云えばあれか、誰もいないのにドアや壁を叩く音がしたり、本棚とか机が揺れたりするっていう。
 そう、あれ。ユカはこっくり細い首を前に倒して、
「あとこないだ油すましに会った」
 あとこないだアブラスマシに会った。
 わたしは頭の中でユカの言葉を反芻し、ん? と首を傾げた。どうにも理解できない単語が混じっている。ていうか、簡単にユカは云ったけど、ふつう会わない感じの人(人じゃねえ)だよね?
 わたしの混乱を察し、ユカは筆箱からシャーペンを取り出すと、机の表面にしゃしゃっと線を引きはじめた。間もなく薄い木目の上に現れた絵に、ほう、とわたしは息を洩らす。
 若干マンガっぽくはなっていたものの、その絵には見覚えがあった。小学生のころ、夏休みに再放送していたゲゲゲの鬼太郎に、たしかいた。背景みたいな出番しかなかった気がするけど。
「これが油すまし?」
「うん」
 お地蔵さんをくしゃっとつぶしたような、苦そうな顔に、簑を背負った小さな身体。手にはうねった樹の杖を持って、ちんまりとたたずんでいる。さっと描いただけの絵は独特の陰影があって、つるつるした机の表面に描いた絵なんてうそっぽくなりそうなものなのに、それはいかにも実在しそうな「油すまし」、だった。美術部に入っているから上手いのか、上手いから美術部なのか、どっちかわからないけれど、とにかくユカは絵が上手い。
「へー、これかぁ」
「そう。おばあちゃん家の近くで、会った」
「妖怪?」
「なんだろうね。おばあちゃん家の地元じゃ、わりと有名だし。わたしも昔話聞かされて育ったし」
「そうなのか」
「うん。こういう話なんだけど」
 と、前置きして語ったユカの話はこうである。
 明治の頃。里にほど近い山の道を歩きながら、おばあちゃんとその孫が油すましの話をしていたんだとさ。むかーしむかし、この道に油すましっていう妖怪が出たそうな。ほれ、ここじゃ、この峠の辺じゃ。って。
 そうしたら。
「そうしたら?」
 ふいに話を止めたユカに、どうしたんだろうと話の続きをうながすと
「今も出るぞ!!」
「ひゃあっ!?」
 いきなりの大音声に、わたしだけでなく、周りの子たちもびっくりした。何せユカが大声を出すなど、滅多にない。初めてのことかもしれない。昼時で騒がしい教室の中にもかかわらず、その一瞬ばかりは、しんと静まり返ったくらいなのだ。
「と、油すましが出てきたそうな。っていう、話」
 当の本人たるユカはけろりとして話を締めくくり、ぱくりとウィンナーロールにかぶりついた。わたしの心臓を死にそうなくらい弾ませたことなど、全然気にもしてない顔だ。というかクラス中が思いきりざわざわドキドキしてユカに注視しているわけなのだが。吊り橋効果でいうなら、今ならクラス全員がユカに恋に落ちそうな勢いである。
「おどろいた?」
「死ぬかと思いました…」
「そんな怖かったの」
「あんたが怖かったんや!」
 思わず関西弁で突っこんでしまったが、なんだ、と細長くバランスの悪いウィンナーロールをいかに形よく食べるかに腐心する方が、ユカはよほど大事そうであった。大物だ、コイツ。
 そのころにはクラスも別に大事ではないとわかったようで、みんなの視線もわたしたちから外れた。
 わたしはほっとしながら、で、とユカに訊く。
「その油すましに会って、あんたよく無事だったね」
 一クラス分ドキドキさせたユカの方がよほど怖い気がしないでもないが、一応相手は妖怪なのだ。がしかし、ユカは相変わらず淡々としている。
「だってそれだけなんだもの」
「それだけ、って云うと」
「出るだけなの」
「はぁ」
「しかも」
 そこでユカはちょっと小鼻をふくらませた。真面目な話らしい、とわたしも身を乗り出した。
「しかも?」
「そのままなの」
「……はい?」
「今の話のまんま。おばあちゃんと山歩きしてたら、ほれこの峠で」
「今も出るぞ、って?」
 また驚かされてはたまらない、と先んじて云うと、うん、と鼻を鳴らすようにユカはうなずいた。
「あんまりまんますぎるからわたし笑っちゃって。おばあちゃんもだけど」
「よく笑えるなあんたら!」
「落ちこんでたよ」
「油すましが?」
「うん」
 形よくウィンナーロールを食べ終えて満足そうに息をつくユカに対し、わたしは極めて複雑であった。マイペースで変わった奴だとは思っていたが、まさか妖怪を落ちこませるほどの女だったとは。大物、というか、大変人なのか。ところで大変人ってジャワ原人みたいだな。
 それにしたって十年一昔と云うけれど、まさか妖怪油すましだって、出たら笑われるなんて思いもしなかっただろう。だが現代は無情なのである。アーメン。
「今度さっちんも行く? たぶん話してたら出てきてくれるよ」
「行きたくない」
 油すましがかわいそうで。とは、胸のうちでだけつづけておいた。
「えー、残念」
 本当に残念そうにユカは云い、それがユカにしてはめずらしく本当に残念そうだったので、
「や、やっぱり行こうかな…」
 言葉をひるがえしかけたわたしより早く、ユカがこちらを指差して云った。
「あ、さっちんの後ろに」
「いい! 云わなくていい!」
 あわててさえぎるわたしの首すじをたしかに何かがさわっていったような気がして、ひょーっとわたしは情けない声を上げることになる。




100918
タイトルは、書いているときにどうしてもあのリズムが頭から離れなかったので