■階段の彼女


 彼女は必ず階段を降りるときも上るときも、一段、あるいは二段を飛ばすのだった。
 だからその足音は自然と高く、大きくなって、少し離れたところにいても聞こえたし、先を歩いているときなど、後ろからだんだんと迫られると、その音だけで誰なのかは振り向くに及ばずわかってしまう。
「あんたそれ危ないからよしなよ」
 学校や駅の階段というものは、えてしてトラップが多いものだ。濡れてたり、物が落ちていたり、転びやすい条件が揃っている。それでこちらが心配しても、
「大丈夫だよ」
 彼女は聞く耳を持たずに、平気な顔をして大股に歩く。階段を大きく歩くからと云って、背が高いわけでも、特別足が長いというわけでもない。いたって中肉中背だ。ではそんなやんちゃな娘なのかといえば、正直見た目は文学少女なのだからひどい裏切りなのである。黒髪のおかっぱに赤い縁の眼鏡という外見で、上履きを、ローファーを、ぱたぱた鳴らしながら彼女は小さな嵐のように階段を通りすぎていく。それは楽しくはしゃいだあまりそんな大きな動作になるのだとも、憎らしいから痛めつけるように踏みつけてやるのだとでもとれて、彼女の真意は定かでない。たしかに普段から歩幅は広かったが、それが何故階段に差しかかるとより顕著にあらわれるのか、謎だった。
「なんでそんな急ぐの」
 というわけで授業も終わり、下駄箱へ向かう階段を恒例の一段飛ばしで降りきった彼女に訊ねてみれば、え、と振り向いた彼女は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。そんな質問がこの世にあったのか、と云わんばかりの表情だった。わたしの方はわたしの方で、何気なく口にしてから、そうかあれは急いでいるように見えていたのか、と自分の言葉に感心していた。
 ところがである。
「急いでないよ」
 彼女は反駁してきた。
「急がされてるんだよ」
「………」
「君にはないかな。そういう感じ」
「階段が?」
「うん」
「急がすの?」
「そうだよ。ほら、今も君の足を急き立ててる」
 ゆっくり階段を降りるわたしの足を指して、彼女は下から自信満々に云い放つ。そうかなぁ、とわたしは歩みを止めて、自分の足を見下ろす。彼女の云うのが、単に引力や重力の問題でないのはわかる。あえて云うなら、それは気分の問題だ、とわたしなら云う。実際のところは、彼女にしかわからないことだ。それにしてもやる気ない身体の主に倣って、わたしの足は泰然としていた。どれだけ切迫して火急の用に迫られても、極力疲れないように、そのことに腐心していそうな脚なのである。
「…悪いけど、わかんない」
「わからないか」
 彼女は別段気を悪くしたふうもなく、階段を降りきったわたしを待って、またいっしょに歩きはじめた。階段では待たないくせに、廊下や道を歩くときは同じくらいの速度で歩いてくれる。ここでは、誰も彼女を急かさないのだろうか。一体何が彼女をあそこで急かすのだろうか。荒々しく階段を上り下りするとき、彼女の中にいったいどんな衝動が渦巻いているのか。サザンを鼻歌で器用に口ずさみながら歩く彼女の横顔は、今は平地だからなんとなくのっぺりしている。階段の彼女は口を真一文字に引き結んで、ちょっと鬼気迫るものがあって、どことなく影を持っている。まるで階段と戦っているみたいな顔なのである。
「階段は」
 下駄箱の靴を床に落とすように置きながら、彼女は不意にこちらを見た。わたしは靴を履きかえている途中の不安定な姿勢で、斜め下から彼女の顔を見上げるかたちだった。眼鏡に夕日らしい光が反射して、彼女の表情というものをすっかり覆い隠していた。
「階段は、気を抜いてると、連れてかれるんだ」
「…どこに?」
 脈絡の見つけられない話に首をかしげると、彼女はかすかに肩を揺らした。
「どこだと思う?」
「さぁ…」
 わたしは階段からはじまったこの会話が、どこで終わるのかわからなかった。そのことになぜか不安を煽られているような気がした。
「どこだっていいじゃん」
 だから、こんなことも云ってみた。不安をごまかしたくて云ったのに、口にした途端後悔が胸をついて、わたしは姿勢を立て直したくせに目は彼女の方を向いていられず、昇降口の扉の方をむやみと見つめた。彼女はふぅんとうなずいて、そうか、と云った。
「どこだっていいわけか」
 突き放すような口調だった。
「いやそれは」
 冗談の話でしょ。
慌てて取りつくろうあたしの口を、いきなり熱いものが塞いでいった。レンズ越しに間近で見る彼女の目は黒々して、高い階段を上からのぞきこんだときみたいに目眩を誘った。わたしの呼吸は止まった。
「ほら。連れてかれた」
 楽しげに彼女は笑い、次の瞬間にはぽいとわたしを突き飛ばした。
「あ」
 も何も云う間もなかった。ここは平地なのに彼女はまるでいつも階段を下りるときみたいにから足を踏むわたしを置いて駆け出していた。昇降口を抜け、その姿が運動場の彼方に小さくなっても、わたしは動けなかった。
「……ここ、階段じゃないじゃん」
 小さくうめいて、彼女が触れたくちびるを指でなぞる。あの嘘つきめ、と火の付いたように赤い顔を持て余しながら彼女を呪ってやる。
「全然、ぜんぜん大丈夫じゃないだろうがー!」
 運動場の彼方に小さくなっても、彼女の姿はまだ見えていた。わたしは歯を噛みしめると、カバンを放り出して彼女に向かい突進していった。




091206
方向性を見失いつつ書いてみました