■不毛地帯ガールズ(プロローグ)


 陽の落ちかける時分になると、電車の音が町によく響く。町の北の方を隣の市へつづく線路は、大きな川を一つ越えて、そのときに渡る橋が、夕暮れの淡い闇をごとごとと打つのだった。紫色にたなびく雲が、赤と青の空の間に湿った和紙のように張りついている。
 タナミは河原沿いの土手道をぶらぶら歩きながら、西と東の空を交互に見やり、それからそのだいたい真ん中に位置している自分の頭上を仰いで、くちびるを尖らせた。ヒュー、っと吹くつもりだった口笛は、いつものように掠れて音にならなかった。生まれてこの方、口笛を上手く吹けた例がない。頭の上にうすっぺらく現れはじめた、夏の大三角形の一角をになっている白鳥が笑っているのではないかと勝手な劣等感を抱くほどには吹けた例がない。
 今タナミが歩いているこのY川は、電車が渡るK川よりかは幾分小さい。たしかあちらは一級河川だったはずだが(と小学校の授業で習った記憶がある)、こちらは二級河川だ。毎日中学校までの道すがら、川岸に立てられた看板を見ているから、これはまちがいない。それでも川と土手の間には遊歩道や芝生なんかもあって、向こう岸の土手までは結構な距離があり、たとえばあそこに立っている同級生の顔などは、視力二.〇を誇るタナミでようやく見えるくらいだった。
「…お?」
 学校の近くなのだから部活帰りの同級生などを見かけること自体はめずらしくなかったが、それがよく知る人間だとなると、いささかの興味が湧く。しかも、普段なかなか見ない二人組なのである。むしろ、ひとりの方は、普段はもっぱらタナミがセット扱いされているハナマキという女生徒なのである。
「…こりゃまた、面妖な」
 もうひとりの方に目を向け、タナミは眉根を寄せた。彼女も、タナミの知っている人間だった。今年から同じクラスの生徒だ。が、タナミの知る限り、二人の接点はそれくらいしかないはずだった。ハナマキの一番親しくしている友人といえばタナミだったし、タナミにとってもそれは同じことが云えた。
 二人は向き合って、何か話をしているようだった。ハナマキの方は私服だが、相手はまだ制服を着ているところを見ると、学校帰りにたまたま会って挨拶でもしているか、しかしそのわりにタナミの目には二人の間に不穏当な空気が流れているようにしか見えないのだった。だから、対岸の組み合わせが余計に腑に落ちない。  声は、さすがに風に乗っても聞き取れなかった。ハナマキの方はいつも通りの大仰な仕草で、何やら苛立っているのがわかったが、相手の方はただ突っ立っているだけのように見える。彼女の長い長い黒髪が、風に流されて、時々さぁっと広がる。
 タナミは息を飲んで、目を見張った。まさか、という思いが急に胸をつきあげてきた。そのときだ。
「ぬあっ!?」
 尻ポケットに突っこんでいた携帯が、突如として震えた。ぎょっとして取り出してみれば、母親からのメールである。
『まだ!?』
 その短い一文に、母のいらだちが読みとれる。そうだった、とタナミはようやく自分の役目を思い出す。おつかいで、夕食用の豆腐を買いに出た帰りだったのだ。左手にぶら下げたエコバッグ越しに、太ももに当たる豆腐の冷たさも、ずいぶんぬるくなってしまっている。こりゃ早く帰らんといかんな、と慌てて携帯をしまい直したタナミがなんとなく対岸に目を戻しつつ歩きかけた、またしてもそのときだった。
「あー」
 開いた口がふさがらない、とはまさにこのことだとタナミは思った。ハナマキが、相手の頬に渾身の右ストレートを放っていたのである。
「ハ、ハナー…!」
 思わず叫んだが、ハナマキには届かなかったらしい、バカ、だか何だか一声云い捨てると、ダッと土手の反対側へ駆け下りていってしまった。
「ああああああああ」
 残された方へ目を戻してみれば、彼女は頬に手を当てたまま、ハナマキの去った方を向いて立ちつくしている。ハナマキは小さい背丈のわりに馬鹿力で、よくあのストレートをまともに食らって立っていられるなと感心しつつ、一応向こう側まで渡って大丈夫かどうか訊いてみるべきかどうか迷っている間にまた携帯が震えて、母親の怒りが悪化しているのを知る。どうすりゃいいんじゃい、とおろおろしていると、やがて彼女は何ごともなかったかのようにゆっくりと歩きだした。タナミには気付かないようで、川を挟んですれちがうかたちになったのだけれども、彼女はまっすぐ前を向いたまま、そのうちハナマキと同じように向こう側へ下りていった。その後ろ姿が消えるまで見送って、タナミはため息まじりにもう一度頭上を仰いだ。夜が来ていた。彼女の髪のような、群青がかった黒い空だった。口を尖らす。口笛は、やっぱり上手く吹けなかった。




091119
先日コミティアにて発刊した『不毛地帯ガールズ』の冒頭部分より抜粋