■バトン (2)


「まじょ?」
 まじょってあの「魔女」、だろうか。何だそのファンタジー。マキちゃんはいかにも嫌そうに、さらにくちゃっと顔を歪めた。
「魔女じゃなかったらクソ女」
「いやそれ全然違うよマキちゃん」
 魔女は恐ろしい存在だが、クソ女ならただのうっとうしい存在である。だがしかし、クソかどうか決めるのは個人の主観であって、この場合、わたしが思うに甚だしくマキちゃんの個人的嫌悪が強いように思われる。
「同じだ、同じでいい。っつーか」
 何を思い出したのか、終いにマキちゃんはばりばりと歯噛みまでしはじめた。挙げ句に、
「ああもう思い出してたら腹立ってきたじゃねーか! おめーのせいだ」
 生徒に指突きつけて云った科白がこうである。傍若無人これ極まれり。これで教師だというのだから、世の中何かがまちがっていると思うのは早計だろうか。
「うわぁ。それ八つ当たりって云いません?」
「云わね。あたしん中じゃ」
 ふんぞり返って堂々云われるとまるでこちらがまちがっているようだが、無論そんなことはない。…ない、はずだ。なにゆえわたしの周囲にはこのように身勝手な人間が多いのだろうか。類は類を呼ぶ、とか云うあれであるはずはないのだが。
 鍵の束を持て余すわたしを見て、マキちゃんはいくらか表情をやわらげた。とは云え、まだまだ口はへの字にひん曲がったままなのだったが。
「誓って云うけど、それほんとに盗品じゃねーかんな」
「その魔女だかクソ女だかって人は、何者なんです」
「……同級生」
「友だちじゃないですか」
 呆れた。が、呆れたことにマキちゃんはそれを全否定した。
「そんなもんじゃねえや! ありゃ敵だ。殲滅すべきだ」
 まるで夏になると活発化する黒くて異様に素早い件の昆虫であるかのような云われようである。どんな女性なのだろうか、かえって興味が湧いた。が、その詳細を今のマキちゃんに訊いても、ゴキブリ以上の言葉が返ってくるとは思えなかったので、今日はいったん引くことにする。
「で、その方から譲られたんですか」
「ここに赴任するっつったらな。でもべつにあたし使わないし、……つーか行きたくねえし、あの部屋」
 また何か新しいことを思い出したのか、マキちゃんは舌打ちして渋面を作った。よほど嫌なことでもあったのかもしれない。
「でも何でその人持ってたんですか、こんなの」
 わたしは一番の疑問を口にした。十年前のことであろうとも、鍵なんてそうそういくつもあるものではないだろう。
 それに対するマキちゃんの答えは、実に明瞭だった。
「知らん」
「は?」
「聞いてないから知らない」
「……友だちなのに?」
「だからそんなじゃねえって」
 マキちゃんは否定するが、けれども中学の同級生で、その後十年経っても付き合いのある人間は、友だちと呼んで差しつかえないのではないだろうか。友だちでもないような人間と、そんな長く付き合えるものなのだろうか。
 わたしの疑問を察してか、マキちゃんは肩をすくめて云った。
「いろいろあんだよ」
「……大人だから?」
「いろいろあったの。今でもあるの」
「……よくわかりません」
 わたしとマキちゃんの間にある十年という時間は、わたしにとっては、とても長い時間だった。十年後の自分というものが、わたしには正直見えない。だって十年前のことなんか、ほとんど覚えてない。暗いところが好きだった、というのも、ぼんやりとだけだし、あとは親がそう云うので、そんなものかと思っているだけだったりする。でも、感覚として、その長い時間のあとの自分が、今の自分と繋がっているような気はしなかった。マキちゃんの言葉は、そうではない、ということなんだろうか。よく、わからない。
「わかんなくていいよ」
「え?」
 びっくりした。学校で、そんなことを云われたのは初めてだった。わからなくていいこと、なんてあったのか。
「今わからなくてもそのうちわかるだろうし、わからんままの時は、まぁあきらめてくれ」
「……マキちゃんって、ほんと先生らしくないですよね」
「るせー。おら、もうさっさと行け行け」
 マキちゃんは虫でも追い払うようにしっしっと手を振ると、最初の時のように、手すりに背をもたれさせた。そうして目を細めて空を見上げる顔が、なんだか見ちゃいけなかったもののような気がして、わたしは鍵の束を掴むとそそくさと一礼してマキちゃんに背を向けた。小さいマキちゃんは同い年の友だちのように気安いけれど、友だちではないので、わからないことがいっぱいだった。わからないマキちゃんは、でも先生だとか、大人だとか、そういうふうにも見えなかった。これも、いつかわかるときが来るのだろうか。それともわからずに、あきらめるときが来るのだろうか。それは、いつになったら、わかったりわからなかったりっていうことが、わかるんだろうか。とりあえず十年、生きてたらわかるんだろうか。
 扉の前まで来たとき、由岐、と上から声が掛かった。
「先達として、もうひとつ云っておく。わかるとかわからないとか、それは自分の問題だ。わかってほしい、って思ってるだけなのも、自分の問題だぞ」
「……よく、わかりません、けど」
 わたしは扉のノブに手をかけて答えた。振り向きはしなかったので、マキちゃんがどんな顔をしているかは、見なかった。
「ま、考えてみな」
「失礼します」
 校舎のなかに入ると、明るいところにいたせいで廊下はずっと暗く感じた。わたしは重い鍵の束を手の中で鳴らしながら、閉めたばかりの扉に背を預けた。目を閉じる。まぶたの裏に残る光が、鈍い痛みを放った。
「……変なとこで、先生ぶらなくてもいいのに」
 ため息を吐いて、わたしは歩きはじめた。スカートのポケットの中で、携帯が鳴っている。相手はわかっている。実はマキちゃんと話している間にも、ひっきりなしに鳴っていたのだ。そんなことしている間に、さっさと仕事を片付けてくれればいいのに。苦笑がもれて、でも今は清住と顔を合わせたくなくて、わたしは生徒会室へ向かう方向と反対の階段をのぼる。手の中の古びた鍵。わかってほしい、なんて思ってない。それはちがうの、と胸のなかでマキちゃんに口答えする。
 でもそれが、マキちゃんに云われたことだから認めたくないだけなのも、わたしにはわかっていた。わかっているのはそれくらいだし、わかりたくないことも、それくらいだった。




100620
前回の更新から一ヶ月も経っていてすいませんでした…!
キヨとユキの話は、まぁまた追い追い書くかもしれないし、書かないかもしれません