■バトン (1)


 学校のなかで、一人になれる場所を探すのは得意だった。小学校なら、北校舎の裏のイチョウの木の下。一階の、ちょうどすぐ端の教室は第二家庭科室という、普段使われない教室だったから、校舎からの目を気にすることもなかった。二階と三階はトイレに面していた。そのトイレも、北向きで薄暗いせいか、あまり生徒が使うことはなかったように思う。あとは、封鎖されている屋上へと向かう途中の、南校舎の三階の上階段。お気に入りの場所だったけれど、五年の二学期から物置と化してしまって使えなくなった。
 中学校なら、ここ。北校舎の、外付けになっている非常階段。南校舎のように鉄製の手すりだと外から丸見えだが、こちらは石造りでやたら頑健につくってあるため、ちょうど踊り場のあたりで座りこんでいると、外からはまったく見えない。つくづく自分は北向きが好きらしい、と思うのだけれど、人が来ない場所を選んでいると、自然そうなるものらしい。明るいところよりは、暗い方が好きだった。思えば幼稚園に上がるより前の幼い頃も、外で遊ぶより家の押し入れに閉じこもって懐中電灯で絵本を読んだりすることの方が多かった。三つ子の魂百までも、というやつらしい。
 わたしは脇に携えた本を抱えなおしつつ非常階段のドアを開けながら、十年経っても変わらないものだな、と思って目を細めた。先客がいた。初めての先客である。
「あれ」
 向こうも意外だったらしい、大きな目をぱちぱちさせて、踊り場にもたれていた小さな背を揺らした。
「マキちゃん」
「マキちゃん云うな」
 思いきり渋面をつくりながらマキちゃん先生は云い、云いつつもわたしのために身体をずらしてくれた。五六段の短い階段をのぼって、あまり広くない踊り場にあがる。マキちゃんは、じろじろとわたしを眺めた。
「由岐、さっき相方が探してたぞ。半泣きで」
「ああ。生徒会室に行くように云っておきましたので。上手くいったみたいですね」
「学年主任もいっしょにいたのはお前の根回しか…」
「だっていっつもサボるんですもん、キヨのやつ」
 大変不本意なことにわたしの友人である清住歩は、おおむねバカだったが、なぜか生徒会長なのだった。ちなみにわたしは副会長である。そして我が校の生徒会は、現在この二名のみだった。最初は冗談かと思ったが、本当に生徒会長兼書記兼会計で、副会長兼書記兼会計だった。そして会長が六割強の確率で仕事をさぼって色恋にうつつを抜かして下さるので、当然のようにその残った仕事はわたしが片付ける羽目になる。だから、たまにはバカ殿ががんばってくれてもいいはずだ。ちなみに、そのバカ殿が血道を上げているのは、今わたしの目の前にいるこのマキちゃんなのだったが。
 こえーなお前、とマキちゃんは肩を揺らして笑い、それからふぅっと小さなため息を吐いた。何の前触れもなく、小さなマキちゃんがこぼした小さなため息は、何気ないだけにかえって何だかいろいろなものがぎゅっとつまったように重たく聞こえた。
「でもセンセ、よくこんなとこ知ってたね」
 いつも怒鳴り散らしているマキちゃん以外の顔は見たことがなかったわたしは、性にもなく焦ったように口を動かした。この非常階段へ出る扉は、ぱっと見たところでは閉めきられて開かないように見えるから、だからわたしが一人になるのに好都合なのだった。それだけに、今年赴任してきたばかりのマキちゃんが知っていたのは意外だった。
 マキちゃんは、なんだ、と細い首を傾げてわたしを見上げた。
「そりゃ知ってるさ。あたしここの卒業生だもんよ」
 さらっと云い、えっと絶句するわたしを、困ったようにながめる。お前知らんかったんか、と云われても、全校生徒のはたして何人がその事実を知っているのだろうか。
「ここ来たばっかの時、始業式で云わなかったっけか」
「聞いてないです、聞いてないです」
「あ、そうだっけ」
 マキちゃんはジャージの腰回りのゴムを引っ張って、ぱちんぱちん音を立てながら、じゃあそういうことだ、と重々しく云った。そうですか。わたしも重々しくうなずいた。ひゅうっと、風が吹いた。
 云われてみればたしかに、マキちゃんはまだまだ教師生活三年目のかけだし先生のくせに、校内を闊歩する姿が堂々とし過ぎていた。てっきり性格がこんなだから物怖じしないのだろうと思っていたのだが、勝手知ったる母校ならば、緊張の度合いも少ないのかもしれない。もっとも、それでもたいていの人はもう少し萎縮しているものだと思うけれど。
 マキちゃんは手すりに両肘を乗せ、ぐっと背をそらして空を見上げながら、
「しかしまぁ、今でもこんなとこに来る奴がいたとはねえ」
 どこか穴のあいたような声で云った。キヨが盛んに仕掛ける猛烈なアタックを、これまた激烈な勢いではじき返しているマキちゃんは、身体のわりに大きく見えたものだけれど、今のマキちゃんは、そのまんま、という感じだった。わたしより十以上も年上なのに、わたしより十センチくらい小さいマキちゃん。それ以上でも、それ以下でもなく、ちょっと仕事に疲れて時間をつぶしている先生、という印象を受けた。当たり前のことなのに、なんだかわたしはへどもどと視線をそこかしこにさまよわせながら、
「センセも、サボりですか」
 訊ねると、へへ、と鼻の頭に皺を寄せて笑う顔がいつも通りだったので、ほっとした。
「まだ慣れんな。教師ってのは、疲れるや」
「生徒に愚痴って良いんですか」
「よかねえやな」
 マキちゃんはあっけらかんと答えて、というわけで、とポケットから取り出した鍵の束を、ほいっとわたしに差し出した。
「これやる。だからここ、空けてくれよ」
「……なんです? これ、どこの?」
「開かずのフロア」
「………」
 わたしは口を噤んで、マキちゃんと、その手の先にある鍵の束とを、交互に見比べた。開かずのフロア。そこは東校舎の三階のことで、滅多に使われない特別教室ばかりが並んでいるために、そう呼びならわされている。たしかあのフロアの鍵は、職員室の保管庫に入っているマスターキーしかなかったはずだ。わたしは掠れそうになる声を、口の中の唾を飲んでごまかした。
「センセ。盗みはどうかと思う」
 わたしの深刻な声にマキちゃんはきょとんとして、かと思うと、ああ! と大きな声を上げた。
「失礼だなー。こいつぁパクッたもんじゃねえよ。だから、安心して受け取っていい」
「じゃあどうしてセンセが持ってるんです?」
 すんなり受け取るには謎が多すぎて、わたしはその鍵の束を掴むにためらった。マキちゃんはきゅっと顔をしかめた。わたしの質問を嫌がった、というわけではなく、その問いの答えを探すのが、あるいはすでに持っているその答えが、面白くないみたいだった。
 どれくらい待ったろうか。マキちゃんは足元に落ちていた、どこからか飛んできた葉っぱをつま先で寄せ集めながら云った。
「……魔女からの餞別」




100515
生徒会二人制度は、現にありました
ていうかわたしが会長で、友だちが副会長。以上!
という状態で、当然仕事大変でした
今でもどうかと思うんだぜ…